城塚翡翠のグランド・イリュージョン:『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(相沢沙呼)感想

ぎゅ。
 (「終末世界と放浪少女2(チームランドセル)」/CVこやまはる)

「先生、ぎゅってしてあげます」
「遠慮しなくていいんです。つらいときには、わたしがぎゅってしてあげます」
(『medium 霊媒探偵城塚翡翠』p.353)


『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(相沢沙呼)を読んだので、今日はその感想を書こうと思う。
なお、本作はネタバレ厳禁なタイプのミステリ小説なので、未読の人は注意してほしい。あと、ボクはミステリにわかなので、ミステリ好きからすると何を言ってるんだかという文章かもしれない。あと、ボクは映画『グランド・イリュージョン』を見たことがない。

medium 霊媒探偵城塚翡翠 (講談社文庫)

(以下の『medium』からの引用は文庫版から)


読んでいるときはすっかり忘れていたのだけど、ボクが相沢沙呼を読むのは本作が初めてではない。アンソロジー『放課後探偵団』で「恋のおまじないのチンク・ア・チンク」を読んだことがあった。相沢沙呼のデビュー作『午前零時のサンドリヨン』シリーズの一編で、マジシャンの少女が登場する。そのときに相沢沙呼自身マジシャンだということは知っていたのだけど、本作を読んでいるときには頭から抜けていた。

まずいきなりだけど、本作は〈どんでん返し〉ものだ。このどんでん返しはキャラクターとその関係を大きく変えてしまうものだから、ショックを受けた読者も少なくないらしい。ボクはというと、痛快だった、というのが良いと思う。
ということで、本作のどんでん返しはいかなるものなのか。なぜそれが痛快なのか考えたいと思う。 とりあえず、Amazonの商品ページからあらすじを引っ張っておく。

推理作家として難事件を解決してきた香月史郎は、心に傷を負った女性、城塚翡翠と出逢う。彼女は霊媒として死者の言葉を伝えることができる。しかしそこに証拠能力はなく、香月は霊視と論理の力を組み合わせながら、事件に立ち向かう。一方、巷では連続殺人鬼が人々を脅かしていた。証拠を残さない殺人鬼を追い詰められるのは、翡翠の力のみ。だが殺人鬼の魔手は密かに彼女へと迫っていた――。

(心に傷……?何の話だ……?)

あらすじを見ればわかるように、本作では論理と霊能力は対立していない。香月も早い段階で翡翠の霊能力を信用してしまい、疑うことはまったくない。
プロローグ(時系列的には最終章の直前)からしてこの調子である。

 たいていの記事では、その素性不明の霊媒に対して、批判的に書いている。当然だろう。霊能力者がその力を用いて事件を解決していくなど、夢物語に等しいことだ。目の前の婦人は、そんな夢物語に縋りたいのだろう。
 だが、彼女にとって幸運なことに、それは決して夢物語ではない。
 真実なのだった。
 (p.10)

後から見ればこれみよがしなミスリードである。
ボクは最後の《真実なのだった》を読んだときにナガノの《「最強」なのだった》を思い出してしまいツボに入ってしまったのだけど、ボクの違和感に対する嗅覚は間違っていなかったことがあとでわかることになる。

霊能力者・城塚翡翠と推理作家(=探偵)・香月史郎という組み合わせ。この構図は、オカルト・ホラーものではかなり典型的なものだ。心霊的なものは女性に、論理的・合理的・科学的なものは男性に。
ホラー映画では、当然のことながら心霊現象は実在する。だから、科学=男性は敗北することになる。
だからボクは本作もそういうものだと思っていた。香月の論理は心霊に敗北し、香月はいつか死んでしまうのではないかと予想していた。ていうか、期待していた。

もちろんそうではなかった。だって本作はホラーではなく、推理小説なのだから。

論理が勝つに決まっている。

本作の〈どんでんがえし〉。
……翡翠は霊能力者でもなんでもなかった。奇術によってそうだと思い込ましていたのである。
翡翠が事件の真相を言い当てることができたのは、霊能力によるものではなく、論理力、推理力によるものだった。

読者と香月は、本作を心霊現象と論理の対立の物語だと思っていたかもしれないが、最初からそんな対立はなかったのだ。
あるのは、論理と論理、推理と推理の対決だけだったのである。

香月は自分の「論理」によって翡翠を助けているつもりだったのだが、翡翠の「霊能力」をすっかり信じてしまっていた香月はもはや合理的でも科学的でもでもなんでもなかった。
香月が翡翠に負けた理由、それは単純に論理の力、推理力の差だったのである。

翡翠は香月に対して最後にこう名乗る。

わたしは、探偵ですよ。霊媒探偵城塚翡翠——
(p.463)

タイトル回収!!。
翡翠は、霊媒で探偵だったのである(霊媒はインチキだけど)。
どちらが探偵として優れているのか。強いのか。
本作はそういう戦いだったのだ。

そもそも、第一章の時点で少なくない読者はこう思うはずである(ボクは思った)。
「香月いる?」
第一章のラストで香月はこう言っている。

「霊媒というのは、生者と死者を媒介する存在です。だとしたら、僕はあなたの力を、論理を用いて現実へと媒介する、お手伝いをしましょう」
(p.117)

なんで?香月いなくても翡翠が一人でやればいいでしょ。

実際、翡翠は一人でどっちもやるのであった。

つまり翡翠が「霊媒探偵」と名乗ったとき、こう言っていたのだ。私は香月(=男=読者)より頭がいいし、香月(=男=読者)なんて必要ない、と。
(こんな話に五冠も与えたミステリ好きはマゾなのか?)



ホラー映画の話に戻る。『medium』はホラーではないといったのになぜまたホラーかというと、本作はある段階までは心霊現象は実在するものとして扱われており、ホラーとして考えるとよく整理できるからだ。
(本記事のホラー映画の話は『男と女とチェーンソー——現代ホラー映画におけるジェンダー』(キャロル・J・クローヴァー)をおおいに参考にしている)
ホラー映画のサブジャンルの一つに、スラッシャー映画というものがある。その元祖は、ヒッチコックの『サイコ』であると言われている。映画『サイコ』のストーリーは前半と後半二つのパートに別れている。最初の主人公はある女性だが、彼女は前半のラストで惨殺されてしまう。彼女が惨劇にあったあと、私立探偵が登場し事件の真相を解き明かす、というがストーリーだ。
犠牲者は女性、ヒーローは男性という構図がここにはある。
まだこの時点では。
スラッシャー映画はここから構図を大きく変える。『悪魔のいけにえ』『13日の金曜日』などでは一人の女性が犠牲者もヒーローもどちらも担うことになる。惨劇を生き残り、最後に殺人鬼と対決することになる女性を〈ファイナル・ガール〉と呼ぶ。ファイナル・ガールの特徴は、たんに生き残ることではない。自ら能動的に事件を捜査し、殺人鬼に立ち向かうのだ。つまり、ファイナルガールは『サイコ』における犠牲者と探偵の役をどっちもやることになったのである。

ここには「見る/見られる関係の逆転」がある。彼女は殺人鬼に、また観客に見られるだけだったが、自ら見るものになったのである。

また、スラッシャー映画の説明はこういうものである。
《サイコパスの殺人鬼が集団をつけ狙い、多くの場合は刃物で殺害する内容のもの》(ウィキペディアから引用)
思えば、『medium』のストーリーも、サイコパスの連続殺人鬼との対決であり、スラッシャー映画的だ。また、このサイコパスの殺人鬼の凶行理由は「姉が目の前で死んでしまった」というトラウマが原因であるとされ、近親相姦的な妄想も示唆される。これも、スラッシャー映画における殺人鬼の特徴だ。例えば『サイコ』のノーマン・ベイツは母親の抑圧が原因で殺人を繰り返しているのであり、また、母親の皮を被っていたりする。

『medium』の最終章、連続殺人鬼は翡翠を標的にする。殺人鬼は翡翠を捕らえ、《ナイフを突き立てた》という文章までインタールードされる。
翡翠は殺人鬼の最後の犠牲者なのだ。
そこから逆転し、翡翠は殺人鬼と戦い、勝利する。
『medium』のどんでん返しが痛快な理由。それは、翡翠が探偵でファイナル・ガールだからだと、いえるのではないか。




……待て待て、『medium』はホラーじゃなくて推理小説だって言ったじゃないか。

本作の感想として、「騙された!ショック!」というものが典型的なのではないのかと思う。でも、正直言ってボクは、「頼むから騙していてくれ!!」と思いながら読んでいた。べつにこれは「心霊現象なんてあるわけないでしょ」と思っていたわけではなかった(むしろそこはあってほしかった)。翡翠というキャラクターの描写がどうかしていると思ったからである。

まず、そもそもの話として「霊能力があるけどそれを現実の問題解決に活かせず困っている女性を助ける論理的なオレ」という構図が正気とは思えない。いくらなんでも(ある種の)男の願望充足すぎる。
まあ100歩譲って構図自体はいい。そういう願望とその受け皿となる物語があってもいい。
しかしそれ以外のディティールがいちいち変だ。
例えば香月と翡翠が二回目に出会う場面。
香月が駅に行くと、女性が三人のナンパに囲まれて困っている。香月は最初気づかなかったが、その女性は翡翠だった。気づけなかったのは、以前の印象と違っていたからだ。

人形めいた無表情とは打って変わり、困ったように眉を寄せ、表情を青ざめさせながら、おどおどと狼狽えている。さながら、“狼”に狙われた子羊のようだ。
(p.42)

最初に仕事場で出会った翡翠のいかにも霊媒士然とした雰囲気は演出であり演技で、本当の彼女はか弱い女性なのだ。
……て、いくらなんでも都合良すぎるだろ!あざとすぎる設定だろ!こんな設定にされていまどき喜ぶ読者がいるのか?
しかも言うにことかいて香月のセリフがこれである。

「意外でした。前にお会いしたときと、ずいぶんと印象が違うので。もうちょっと、神秘的でミステリアスな方なのかと思っていたんですが」
(p.44)
何様のつもりだお前?ものには言い方ってものがあるだろ!

そういうわけで、早い段階からホラー映画とかスラッシャー映画とか関係なく香月は死んだほうがいいとボクは思っていたのである。ていうかナンパに囲まれてるってのもテンプレすぎるというか漫画すぎるだろ。

まあまあ、まだこういう男にとって都合の良すぎる描写は呆れるだけだからまだいい。問題は次のようなところだ。

第二章、香月は翡翠が夢で見たというイメージをもとにして推理を組み立て、それを説明する。その推理はいくつかのパターンに分かれた若干複雑なもので、ボクも図におこさないとすぐには理解できなかった。説明を聞く翡翠の描写がこれである。

翡翠は眉根を寄せながら、じっと香月の話を聞いている。
千和崎がやってきて、アイスコーヒーを出してくれた。休憩にはちょうどいいだろう。
「翡翠ちゃんってば、頭がこんがらがってる感じですねぇ」
そう言ったのは、千和崎だ。プライベートでは、そう呼んでいるのだろう。翡翠は頬を膨らませて千和崎を睨んだが、睨まれた当人はまるで気にした様子もなく、鼻歌交じりにキッチンへ引っ込んでしまう。
「大丈夫です。続けてください。わたし、理解できてますから」
むきになるように、そう言った。
(p.203)

馬鹿にしてるのか?
翡翠を。読者を。
こんな描写をされて喜ぶ読者がいるのか?いると思ってるのか?

もし本気でこんな文章を書いているとしたら、相沢沙呼は正気ではない。

正気だった。
全部ウソだった。

翡翠の都合良すぎるキャラは全部作ったものだった。

そんなわけで、翡翠がすべてをバラす場面、ボクはショックを受けるよりも「よっしゃあああ」というガッツポーズと同時に「良かったあ」という安堵の気持ちが強かった。(ただ、正気だとそれはそれで拍子抜けというか、落胆があった。だって当然そうなるべき展開で、想定の範囲内だから。←めんどくせえ)

翡翠は香月を騙すために(かなり体を張った)演技をし、奇術を使っていた。香月を陥れるために。香月を破滅させるために。
そう、翡翠は香月という男を破滅させる運命の女、〈ファム・ファタール〉だったのである。

『medium』のどんでん返しが痛快な理由。
それは、ジャンルが逆転するからだ。スラッシャー・ホラーからミステリーに。ファイナル・ガールからファム・ファタールに。

ここではさらに、見る/見られる関係が逆転する*1
翡翠の霊能力は全部ウソで、推理によって得られた結論だった。それをすべて翡翠はバラすのだけど、そこで翡翠は香月=読者にこう問いかける。

「よろしいんですか?わたしが説明してしまって?考えることを放棄しちゃいます?このままページを進めてしまっても?」
煽るように言う彼女を、香月は睨み付けた。
「よろしいでしょう。では、解決編です」
(p.408)

かなりメタい発言である。香月に向けた発言だが、明らかに読者に向けた発言でもある。
読者はこれまで、物語の外側に立って翡翠と香月の冒険を見ているつもりだった。
しかしここで、当事者の立場に立たされることになる。
翡翠というキャラクターは、香月だけでなく読者も手玉に取っているのだ。
これは、推理小説という、読者がただ書いてあることを読むだけでなく頭を使って推理することを楽しみとするジャンルの特性を生かした、強烈なファム・ファタールだ*2

通常、ファム・ファタールの登場するフィルム・ノワールでは探偵が主人公で、彼が事件を追うちにファム・ファタールに出会い、破滅していく。けれど、『medium』の城塚翡翠はファム・ファタールも探偵もどっちもやるのである。



とはいえ、視点の問題によって翡翠がファム・ファタールに見えるだけで、策謀によって犯人を罠に掛ける探偵というのは実にオーソドックスなことをやっている。
『刑事コロンボ』や『相棒』でもよくあるこの策謀によるバトル展開がボクは大好きだ。
そこには二つの視点がある。騙す視点と騙される視点。ドラマを観ているときに視聴者は探偵の方の味方をしているので、騙す方として罠に掛ける快感を得ることになる。一方で、映像的には騙していることは明かしていないことが多いから、騙されるショックと楽しさを味わうことができる。
だから、『medium』がそういう展開になったことと、続編でもそういう展開になるだろうことはボクは大歓迎である。

騙す/騙される、騙しているとわかっているのに騙されてしまうというのは、相沢沙呼にとって重要な要素であるマジックに特徴的なものだ。
そこで、ボクはある映画を思い出した。というか、その映画の評論を思い出した。宇多丸の『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』評だ。ちょっとその評論を引用しておく。

一作目の『グランド・イリュージョン』で僕、すごくよかったところなんですけど。オープニングでジェシー・アイゼンバーグ演じるアトラスが見せるあるマジックがあるんですけど。これは映画というメディアならではの仕掛けで、すごくうならされました。タネはなんとなく想像はつくんだけど、要はその観客という安全圏にいるつもりだったこちら側の、しかも心理ですよね。心理までもスクリーンの中から見透かされたような気がする。「えっ、なんでわかったの?」って、やっぱりリアルに思うんですよ。カードをシャッフルして、「心の中で(カードを)決めてね。あなたが選んだカードは、これですね?」「えっ!?」っていう。なんとなくタネの想像はつくんだけど。つまり、僕がよく言う映画の醍醐味。「見る/見られる関係の逆転」っていうのが一番スリリングだって言っているけど、それの究極系ですよね。「お前の心の中もこっちは見ているぞ」って言われている感じがして、「うわっ!」ってなる。そのオープニングの素晴らしい仕掛けのインパクトである意味、その後も引っ張るというところはあったかもしれません。

(ボクは一時期RHYMESTER宇多丸のシネマハスラー/ムービーウォッチメンを某動画サイトで死ぬほど聞いていたので、似ている要素のある映画評論がすぐで出てくるのだ)

ここでは「見る/見られる関係の逆転」を映画の醍醐味と言っているが、『medium』ではミステリというジャンルだからこそできる関係の逆転を最大限に活かして、相沢沙呼は城塚翡翠という大変魅力的なキャラクターを作りあげたのである。

最後に、もう一つだけ。

城塚翡翠は当初、霊的なものを感じる第六感を、魂の「匂い」を感じると表現している。とはいえ翡翠の霊能力はインチキだから本当はそんなものは感じてはいないはずである。しかし、インチキ霊媒だと種明かししたあとのセリフでもこんなことを言っている。

「先生に興味があったからですよ。初めてお会いしたときから、この人はおかしいと思っていたんです。わたしに知られてはならない秘密があるのだと。わたし、人間の心理を読むのは得意なんです。あなたからは、人殺しの匂いがしました」
(p.398)

これは……?無論比喩なんだろうけど、ボクにはずっととあるネズミのことが頭から離れなかった。その嗅覚によって、心と身体に傷を負った少女の戦いを支援したネズミのことを……。

「君の今の感情は理解している。君は今、怒っている。とてもね。苛立っているし、恥ずかしがっている。口惜しさもある。君からはそういう匂いがする」
——匂い?
「体臭だ。俺みたいなネズミは、相手の感情を体臭で理解する。知らなかったかい?」
いきなり種明かしをされてバロットは戸惑った。それがすごいことなのか、大したものではないのか、よくわからなかった。ただ、先ほどまで感じていた一体感や安心に水を差された気分だった。
(『マルドゥック・スクランブル改訂新版』(冲方丁)p.77)


*1:香月から見た翡翠の姿は毎回毎回異様に細かく描写さている。例えばこんなふうに。

城塚翡翠は、それこそ西洋人形のように姿勢正しく、そこに腰掛けていた。
白雪を思わせるきめ細やかな肌と、異彩を放つ碧玉色の双眸。耳のあたりから毛先に向かうにつれて緩いウェーブを見せる黒髪は、前髪も内側へと柔らかいカールを描いていた。こうして言葉を発しないでいると、ショーケースの中に収められた精緻な自動人形のように見える。だが、今日の翡翠は霊視に臨むようなときとは違って、超然として いる様子は微塵もない。むしろ緊張に身を強ばらせているようにも見えた。
(p.129)

こういう描写を何回もやっててどうかしていると思ったのだけど、これも「見る/見られる関係の逆転」への「伏線」なのかもしれない。

*2:城塚翡翠は最後までファム・ファタールとして本当にうまくやる。それも香月が退場したあとまで。良きファム・ファタールの条件として、本気で好きなのかそうではないのか最後までわからない、最後までどっちでもありうるという要素があると思う。例えば、『チェーンソーマン レゼ篇』での上田麗奈のレゼの演技の評価でこういうものがある。

映画で見るとやっぱりちょっとブれてるというか、私は最初から騙してたんだよみたいなこと言っててもなんか上田麗奈の声で喋られると二重に聞こえるというか 、もしかしたらそれは嘘かもしんないし、本当かもしんないという感じがずっと続いてるんですよね。だから結構俺上田さんの声優としての演技がこのレゼ編の 解釈自体変えちゃった可能性もあるんじゃないかなって思ってて。
(『チェーンソーマン レゼ篇』を読み解くことで藤本タツキを解体する 石岡良治×成馬零一×宇野常寛https://youtu.be/LX4o-tgD1zM?si=0XzLLr_-deFNgtkm

上田麗奈といえば、チェンソーマンではレゼを、閃光のハサウェイではギギを演じる世紀のファム・ファタール声優だ。
翡翠も、最後まで本心がわからない。エピローグ、翡翠の世話人である千和崎は、翡翠の部屋のゴミ箱で何ヶ月も前に香月と行った遊園地の半券を見つける。あの、香月に好意があるように見えた翡翠の描写は、行動は、演技ではなかったのか?本当だったのか?最後までサービスを惜しまないというか、読者を手玉に取り続けるというか、極上のファム・ファタールだ。

長門有希の二律背反:『涼宮ハルヒの消失』と『超かぐや姫!』の感想

もう先月のことだけど、『超かぐや姫!』一週間限定劇場公開版(※)と『涼宮ハルヒの消失』リバイバル上映を見た。(※見たときはまだギリギリ拡大公開の前だった)

本当は両方一日で見ようと思っていたのだけど、うまくスケジュールが作れず消失を先に見て超かぐや姫!を翌日に見るという順番になった。

その結果、超かぐや姫!は、涼宮ハルヒの消失と似ている、というか、問題意識をかなり引き継いでいるのではないかと思った。ので、今日はそれについて書こうと思う。

『超かぐや姫!』は2026年1月22日Netflixにて全世界公開されたが、何ヶ月も前からかぐや(cv.夏吉ゆうこ)やヤチヨ(cv.早見沙織)の歌ってみた動画を連続公開するなどプロモーションに力をいれており、ボクも楽しみに待っていた。のだけど、配信ということもあってどうにも再生ボタンを押すのが億劫で、見たのは一ヶ月近く遅れてからだった。やっと見始めてからも、パソコンの画面で見ているとどうも集中が続かず結局見終わるのに半日くらいかかってしまった。
とはいえ、楽しかったし面白かった。あれからいまだに劇中曲をずっと聞いているくらいには気に入った。

しかし、いくつか腑に落ちないところがあった。例えばこんなところだ。

  1. なんか、お話がなくない……?いや、あると思うんだけど、展開が連続してるだけというか……通常の劇映画にあるべき有機的なストーリーがないような気がする……?
  2. 「ツクヨミ」って結局なに?昨今の現実の延長としてのインターネットを正確に反映しただけであり、仮想空間である意味はほとんどないような気がする……?

これらの疑問点について、実は『超かぐや姫!』は『涼宮ハルヒの消失』の精神的な続編……というのは言い過ぎだけど、延長線上にある、と考えると面白いのではないだろうか、というのが今日書きたいことだ。

(なお、ハルヒはアニメ化範囲の内容しか知らないしスピンオフもまったく記憶がない。『超かぐや姫!』もノベライズその他の資料は見ていない)

まずは『涼宮ハルヒの消失』について。
大昔に見たので内容をほぼ忘れてたおり、ほとんど初見な気分で見ることができた。どれくらい忘れていたかというと、事件を起こした黒幕の正体すら忘れていた。正体が明かされる直前まで、ハルヒだっけ?朝倉だっけ?と考えていたくらいだった。

『消失』は原作では4巻にあたる。
一応確認しておくと、1巻が『憂鬱』なのはいいとして、2巻の『溜息』が文化祭エピソード(秋)、3巻の『退屈』が七夕の「笹の葉ラプソディ」を含む『憂鬱』と『溜息』の間の時期のエピソードとなっている。ということは、『消失』(時期的にはクリスマス)で再び語られる「笹の葉ラプソディ」は時系列的は少し前だが、エピソードの順番としてはすぐ後の巻ということになる。

ライトノベルの4巻というと最近のシリーズものラノベではまだまだ序盤という感じだけど、『消失』を見ると、「なんでまだ4巻なのにエンドゲームやってるの?」という感想を持った。MCUの『アベンジャーズ/エンドゲーム』は約10年のシリーズの集大成として様々な重要イベントにタイムリープし、再体験するとともにその裏側に深みを与えることになる。『消失』でも、SOS団のメンバーを初対面から再び集めたり、笹の葉ラプソディの裏側に行ったりと「シリーズの積み重ね」を利用した展開になる。

順番だけ見ると若干戸惑うが、改めて原作を読み返してみると、涼宮ハルヒシリーズの性格を考えればここでこのようなエピソードが入ってくるのは当然であるように思う。
山本弘によれば、「涼宮ハルヒ」はパラノイアSFである。パラノイアSFとは、自分以外の他人が自分を騙しているのではないかと主人公が疑っているような話、という程度に考えておく。そういう前提で読むと、キョンはシリーズを通してパラノイア的恐怖に繰り返し襲われていることがわかる。例えば、2巻が文化祭エピソード、つまり自主映画を撮るという話になっているのは、自分以外の全員が「演技」をしているのではないか?という恐怖があるからだ。
だから、『消失』が「自分以外の全員が自分を騙すのをやめた、という形でまた騙そうとしているのではないか?」というパラノイア的恐怖の話になるのは、このテーマを掘っていけば当然現れる展開というわけだ。

『消失』にはイベント的には「笹の葉ラプソディ」が関わってくるが、ストーリーとしては『憂鬱』のやり直しであるように思う。
『憂鬱』では、ハルヒはSOS団を結成したが、その日常に不満を持つようになり、世界をリセットして作り直そうとする。その中で一人リセットを逃れたキョンがハルヒに頼み込むという形で世界改変は回避される。『憂鬱』では、キョンが強力に誘導したとはいえ、ハルヒのほうに選択権があり、その実行も責任もハルヒのほうにあった。
『消失』では違う。世界をもとに戻すことができるのはただ一人キョンだけである。『消失』でキョンはおそらく初めて自らの意志で世界を肯定し選択する。パラノイア的世界を。宇宙人も未来人も超能力者もいる非日常を。

大きく見れば、キョンが選んだのは「世界」である(面白いことに、『消失』には「世界線」という単語は登場しない)。
しかし、もう少し細かく見てみると、キョンは実のところ何を選択したのだろうか?

『消失』を三角関係恋愛ものとして見ると、ハルヒと長門のうちハルヒを選択したというふうに見える。『消失』は長門有希が「負ける」までの物語として本当によくできていて、本当に切ない。キョンに殺意が芽生えるくらいだ。
長門、お前、市立図書館で貸し出しカードを作ってもらったのがそんなに嬉しかったのか。原作だと数行の地の文で処理されるだけのエピソードなのに。でも、そういう小さなことがきっかけになるってのが、恋愛っていうもんだよな。
だのに、キョンが選んだのはハルヒだった。屋上でのセリフ「ユキ」——それは長門の名を呼んだのではなかった。このくだりはアニメオリジナルで、原作にはない。京アニはなんて悲しい演出をしてくれたのか。

しかし、本当にそうか。改変後の世界でもハルヒは改変前と同じようにSOS団を結成しようとしている。改変前の世界には超常現象が本当にあり、改変後にはないという違いがあるとはいえ、SOS団の日常はそこまで変わらなそうである。たんにハルヒと一緒に居たいだけなのなら、改変後の世界でもいいはずである。
では何が違うのか。
言うまでもないが、長門有希のキャラである。
『消失』で長門有希は二つのキャラクターに分裂してしまう。

「この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。それが、わたし」な長門と、

無口で内気ではあるが無表情ではないふつうの文学少女な長門。

宇宙人に作られた人造人間である長門有希という存在の実質は情報であるから、キャラ、つまり記号や属性の変更は容易ということであろうか。

分裂してしまった長門有希を、一つの世界で、一つの物語で共存させることはできない。両方同時に存在させることはできない。それは矛盾だからだ。 だから、どちらか片方を選ばなければならない。

結果として、キョンは超常現象が存在する世界イコール長門有希が宇宙人である世界を選んだ。
宇宙人のほうの長門有希を選んだ。

それが、『消失』におけるキョンの選択である。

(アイキャッチ)

そろそろ『超かぐや姫!』の話に移ろうと思う。
ここまで書けばボクが何を言いたいのかわかると思うけど、まあこういうことである。

かぐやとは長門有希である。

まず、かぐやをはじめとした「月人」は、長門有希と同じように本来は物理的身体をもたない二次元的情報的な存在である。序盤でかぐやの回想のなかでドット絵のように描かれた月世界の様子が、本当にそういう世界だったのは面白かったけど、本来はかぐやはそういう存在なのである。かぐやの肉体は、地球で暮らすための仮の姿に過ぎない。(いやまあ長門は「ヒューマノイド・インターフェース」であって身体のない長門有希が存在するということはたぶんないんだけども。あと、かぐやは別に月からやってきたわけではないのだけど、便宜上「月」「月人」と呼ぶことにする)

これで、二つ目の疑問の答えがわかると思う。ツクヨミは、人々が交流しつながるインターネットを描きたかったのではなく、デジタルで二次元的な仮想空間を用意するためにあるのである。

じつのところ、ツクヨミのインターネット的な側面はあまり描かれていない。たしかに誰でもない人間が簡単に自己表現できる場としてのネットは描かかれているが、そこでつながるのはコメント欄の匿名の視聴者達ばかりである。彩葉たちと交流のある唯一のネットの人であるライバルライバー「ブラックオニキス」のリーダーは、実は彩葉の兄だった。ずいぶん世界の狭い話である。

仮想空間ツクヨミは「月人」が活躍するために必要だったとして、誰にとって必要だったのか。

もちろんヤチヨである。

ヤチヨは、かぐやである。

ヤチヨは、タイムリープによって8000年の時間を過ごしたことで、「かぐや」とは別の「キャラクター」になってしまった。

かぐやは二つのキャラクターに分裂してしまったのである。
『消失』における長門のように。

同じキャラは同時に存在できない。
だから彩葉はかぐやを諦めてヤチヨを選ぶしかない。
キョンが片方の長門を選んだように。

……という選択をしないのが『超かぐや姫!』というアニメなのである。

これで一つ目の疑問に答えることができると思う。『超かぐや姫!』にお話がないような気がする理由、それは、選択がないからである。選択とは、二つの対立するものどちらかを選ぶというものである。『超かぐや姫!』には、この対立がない。だから、通常の劇映画として評価しようとすると、どうにもうまくいかないのである(例えば批評家の宇野常寛は「一言でいうと全く引っかからなかった」と言っている)。

ハッピーエンドとバッドエンドという対立はある。でも、何かと何かが対立し、どちらかがうまくいったりいかなかったりするからハッピーエンドになったりバッドエンドになったりするわけで、それだけではなんとも言えない。

「月人」という「敵」もいるにはいる。でも月人が善なのか悪なのかはよくわからない。かぐやを無理やり連れ戻すのはたしかにかぐやや彩葉にとって悪いことだが、月人がなぜかぐやを連れ戻す必要があったのかは特に説明されないのでそれが本当に悪いことなのかわからない。別に逃げ出すことができないわけでもないし。月世界自体も、かぐやが官僚的=会社的ルーティンワークが退屈だったというようなことを言っているだけで、月の世界がどれくらい悪いところなのかどうかはよくわからない。

彩葉と母親との確執も、何と何が対立しているのかよくわかならない。彩葉が勝手に家出しているだけだし(宇野常寛いわく「趣味で貧乏やっている」)、兄も「母親も反抗を望んでいる」とまで言っていた。和解のプロセス自体は意外としっかりはっきり描かれているので、気にならないのだけども。

対立がなく、解決だけがある。 『超かぐや姫!』のこのような性格を、宇野常寛はズバリこう言っている。『超かぐや姫!』は「チームみらい」である。

youtu.be (宇野常寛の発言はこの動画及び有料パートから)

『超かぐや姫!』にとって、対立するどちらかを選択することがバッドエンドだったのである。

きっと『消失』も、誰かにとってはバッドエンドだったのだ。

『消失』の終盤、事件を起こした長門を情報統合思念体が「処分」することを検討していると長門はキョンに伝える。それに対してキョンは、《何としてでもお前を取り戻しに行く》(『涼宮ハルヒの消失』p.243)と応える。
かぐやが「月」に帰ってしまったあとの彩葉は、これを実行した(正確には彩葉は呼んだだけでかぐやは自分で戻ってきたのだけど)。いや、彩葉の「何としてでもお前を取り戻しに行く」は、さらにそのあとの展開だ。キョンにとっては長門がいなくなることが「バッドエンド」だった。彩葉にとっては「ヤチヨ」としてのかぐやだけでなく、「かぐや」もいなければハッピーエンドじゃなかった。だから彩葉はなんらかの方法で「ヤチヨ」から「かぐや」を分離し、機械?の肉体を与える。かぐやとヤチヨは再び分裂し、どちらのかぐや=ヤチヨも共存するというハッピーエンドを迎える。

正直言って、最後の展開はイマイチ納得感がない。
どうして「かぐや」が復活できたのだろうか?ヤチヨのどこかに8000年前のかぐやの記憶が保存されていて、それをサルベージしたのだろうか?ヤチヨの分身できるという設定を応用したのだろうか?

ともかく、かぐやとヤチヨどちらも諦めないでどちらも選ぶ(選ばない)というのが、『超かぐや姫!』にとってのハッピーエンドだったのだ。

あっちも欲しくて こっちも欲・し・い・の
あっちも欲しくて hrhrhrhrr…

(引用:竹取オーバーナイトセンセーション – HoneyWorks)
youtu.be

最後に、《何としてでもお前を取り戻しに行く》について再度触れておこうと思う。
キョンのほうのその「何としてでも」は、《ハルヒをたきつける》である(ずいぶん無責任な話だ)。ハルヒという一人の人間の、キャラクターの、少女の力でバッドエンドの回避はできると言っているのである。
一方で、彩葉がとった方法はシンプルに「科学技術を発展させる」である。夢があるのかないのかわからないなんとも現実的な解決策である。作風や世界観の違いと言ってしまえばそれまでだが、どうにもここには距離があるような気がする。
2003年にスニーカー大賞を受賞した『涼宮ハルヒの憂鬱』は、忘れがちだけど明確に世紀末の後、「新世紀」の物語である(《一縷の期待をかけていた一九九九年に何が起こるわけでもなかったしな。 二十一世紀になっても人類はまだ月から向こうに到達してねーし、俺が生きてる間にアルファケンタウリまで日帰りで往復出来ることもこのぶんじゃなさそうだ。》(『涼宮ハルヒの憂鬱』p.7))。でも、『超かぐや姫!』のラストはまるで……手塚治虫ではないか。どうして「戦後アニメ」のスタート地点に戻っちゃったんだ???

「深淵」(ロバート・A・ハインライン)、ほか。

今週楽しんだコンテンツを記録。

今週の一曲。 youtu.be ブルアカ始める前から曲だけ聞いてたくらいにはブルアカの曲が好きなのだけど、なかでもEmoCosineによる曲が好きということが最近わかった。で、なぜ好きなのかと考えてみると、どうもボクがポケモンBWの曲が好きだからなのではないか……とこの曲を聞いて思った。

漫画

血契のアナスタシア (冲方丁田中ひかる) 9話

https://piccoma.com/web/product/197412

奇策により敵を追い詰めたアナスタシアに対し、敵は「寿命と引き換え」に巨大なタコの怪物クラーケンを召喚する。強敵に対しアナスタシアはどう出る…?というところから今回。戦闘開始か、となったところでアナスタシアが割った川の底にいた敵の頭に船が落下!「寿命と引き換え」の結果が現れたのだ!……なんだこれ?予想を裏切る展開でおもしろくはある。さらに今回も新キャラのカカシ(ルビ:スケアクロウ)が登場。へんてこなキャラを半ば使い捨て気味に投入しまくる展開は冲方丁と週刊連載の良いシナジーだ。

フレンドガールフレンド(瑠夏子)3話

manga-park.com

かわいすぎる!! ……しか相変わらずいうべきことがないのだけれど。
幼馴染で大親友の夕希(ゆうき)と朝加(あさか)はお試しで付き合ってみることにする。今回は朝加の企画で遊園地デートに出かける。別に好きだから付き合ったわけではないのに、ちょっとずつ相手のかわいいに気づいていく、自分の好きに気づいていく。それがかわいい。
自信満々の女の子はかわいい。

読書

「深淵」(ロバート・A・ハインライン

1948年発表。『ハインライン傑作選集① 失われた遺産』収録。矢野徹訳。
 東浩紀の『観光客の哲学』で、パソコンのない時代で例外的に《現在のパーソナル・コンピュータを連想させるような小型の情報端末がネットワークにつながり支援されるさまを描》いたと紹介されていたので、あるかなと思って国会図書館デジタルコレクションを確認するとあったので読んだ。のだが、確かに未来的ガジェットは多く登場し、個人的に使用する机に設置された装置も登場するが、東がどのガジェットのことをいっているのかよくわらかなかった……。
 諜報員もの。アクション色の強い作品かなと思って読み進めていくと、思わぬ展開に出くわす。主人公は「連邦」の諜報員で月から重要なフィルムを持ち帰る任務についていたが、失敗し組織を追われ、任務の途中で力を貸してくれた中古ヘリコプター会社の社長が持っている牧場に転がり込む。牧場には何人かの男女が共同生活を送っており、時折奇妙な言語で会話していた。牧場は超人、いや、新人類〈ホモ・ノヴィス〉のアジトだったのだ。新人類たちは来たるべき自分たちが人類を導く時代のために科学の研究をしており、人々が話していた言葉は超高速思考を可能にするための人工言語だった。また、人類が自らを滅ぼさないように監視していた。「フィルム」もその一つで、それには地球を破壊する爆弾の研究結果の情報が記録されていた。新人類たちは危険な人物を秘密裏に抹殺するヤバい組織をつくっていたのだ。タイトルの〈深淵〉とは、新人類と旧人類の間の狭くて深い溝のことだった。主人公は新人類の部隊に誘われるが、その選民主義的な思想には拒否反応を示す。

「いや、それがぼくの問題とするところさ。そういう新しい種族を仮定すれば、結果ははっきり している。薬罐腹、ぼくは、民主主義、人間の尊厳、自由をいいとする、哀れな偏見を持ってい るんだ。それは論理を越えたものだ。それはぼくの好きな形の世界なんだ。商売柄、ぼくは社会から見捨てられた連中ともつきあい、かれらの肉シチューを分け合って食べもした。馬鹿な連中かもしれないが、悪くはない …… ぼくは、あの連中が家畜になるところを見たいとは思わないね」

(「薬罐腹」は社長のこと)
 この態度は、好ましいと思う。
 まあともかく主人公は超人部隊に入るための訓練を受けることになる。その教官となる女性の登場人物がいいキャラでよかった。

「もし落第したら、あなたに無理強いしたりしないわ。そのかわり、あなたの首を引きちぎって口におしこんであげる。でもあなたは落第したりしないわよ。わたしにはわかってるの。でも……あなたが満足できる良人になれるかどうかは、自信なしよ。文句が多すぎるんだもの」

 本作は『超能力部隊』の題名でジュブナイル版がある。久里洋二のなんというか、シュール?といえばいいのか?な挿絵がついている。正直言って、かっこよくはない。が、未来感はある。

 このジュブナイル版には新しいバージョンがあり、イラストが変わっている。

 なんだかなつかしい絵柄だなと思ったら、琴月綾は「妖界ナビ・ルナ」のイラストの人だ。久里洋二から琴月綾というのは……この文化の変化はいったいなんなのだろう。この断絶こそ〈深淵〉ではないだろうか……。

アニメ

綺麗にしてもらえますか。第2話 源泉掛け流しが自慢だから

鈴代紗弓主演。なんか今シーズンはよく聞く気がする。 「映像」を楽しむ分にはまあよいのだが、ボクの粗雑な感性ではお話がなさすぎて退屈。まあ映像を楽しめばいいと思うのだが。
DMMTVのレビュー欄にいたこの人↓かわいそうだとおもった。

奇妙で厄介な拡がる家族:アバター ファイヤー・アンド・アッシュ、『雪密室』(法月綸太郎)、ほか。

今週楽しんだコンテンツを記録。

今週の一曲。麻枝准大好き!やなぎなぎ大好き!


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漫画

血契のアナスタシア (冲方丁田中ひかる) 8話

https://piccoma.com/web/product/197412

ボクの一番好きな作家である冲方丁が原作を担当。
魔王勢力(夜/多神教)対人間勢力(昼/一神教)の戦争で魔王が敗れてから百年、魔王の眷属(吸血鬼)でありながら昼は公務員として生活をしているアナスタシアは台頭する〈ファシスト〉と復活しつつある〈夜〉勢力と戦う、というのがあらすじ。アナスタシアがエキセントリックでおもしろいヒロインで、冲方先生楽しんで書いてるんだろうなというのが伝わってくる。田中先生の作画も美麗で魅力的だ。
 アナスタシアは夜勢力に対抗するため、眷属である召使い〈ファミリア〉を増やすことが現在の目標である。それに対し夜勢力側は銀行からアナスタシアの給料である市の予算を盗み、病院からアナスタシアの食料である輸血バックを盗み出して、兵糧攻めを仕掛けてくる。奪われたものを取り戻すため、アナスタシアは敵の潜む船へ向かう。吸血鬼は「流れる水」であるため、敵は水の上で待ち構えていたのだ……あれ、前々回あたりでそういう日光とかたまねぎみたいな吸血鬼の「弱点」とされているものはアナスタシアには効かないって話してなかったっけ……?まあともかくアナスタシアでも「流れる水」は苦手なようである。それに対しアナスタシアがとった手段は……水底まで沈んでさらに泥の中に入ってしまえばもはや流水の上ではないから大丈夫!!!その手があったか!いやそんなバカな!!しかし、バカみたいでとても楽しい。
 ところで、はやく公式略称を決めてくれないと略称が「血アナ」になってしまうのだが……。

フレンドガールフレンド(瑠夏子)2話

manga-park.com かわいすぎる!!

映画

アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ

 ジェームズ・キャメロン監督。新作。
  吹き替え・IMAX3D で見た。
  三作目である。三作のなかだと一番好きかもしれない。が、ストーリー的には前回とほとんど一緒である。

 まず3D について思ったこと。3Dメガネを通して見るのとスクリーンを直接見るのとは、映像が飛びててくるとかいう以前に、まったく違う体験であるように思う。本作を上映していたIMAXスクリーンというのは常識的に考えればどうしてこんな大きさが必要なのかという巨大なサイズのスクリーンである。一方で、3D映像というのは、自分の目の上にしかない映像である。このとき、IMAXスクリーンという巨大なサイズは、感覚的にはほぼ意味がなくなっている感じがする。本作は確かに大スペクタルで大迫力の映像である。しかし、映像が物理的に超巨大である、というアドバンテージが減じているのではないか?と思った。

 吹き替えで見て思ったこと。主人公ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)の吹き替えを東地宏樹がやっているのだが、ボク的には東地宏樹といえばノーティードッグのゲーム・アンチャーテッドの主人公ネイサン・ドレイクなので、アンチャーテッドをプレイしていたときと印象が似てくる。わーグラフィックきれー、水の演算すげー、みたいな。
 しかしなんといってもボクが吹き替えで本作をみたのは、本作の実質的なメインヒロインであるキリ(シガニー・ウィーバー)の声を早見沙織がやっているからである。早見沙織はボクの一番好きな声優なので、もうキリがしゃべるだけで絶頂ものである。しかしそうなると、早見沙織の声しか情報が入ってこなくなり、それ以外の要素を評価するのが難しくなってしまう。これは困ったことだ。

本作公開直後、奇妙なニュースが話題になった。
theriver.jp

本作ではキリと、スパイダーという少年とのキスシーンがあるが、スパイダー役のジャック・チャンピオンは撮影当時まだ一五歳で、彼がシガニー・ウィーバーと直接キスをするのには問題があったようである。そのためシガニー・ウィーバーが別の役者とキスをして、ジャックのほうは未成年の役者とキスをして、それらを合成したということである。キリとスパイダーはどういう関係なのかというと、キリもスパイダーもジェイク家の養子である。キリのほうがスパイダーより少し後に生まれているので、つまり、二人は義兄妹である。

 いまさら言うまでもないのだけれども、アバターは家族の話である。が、アバターで語られる「家族」は、奇妙なものである。ジェイク・サリーの一家のメンバーはジェイクとその妻ネイティリ、長男のネテヤム(前作で死亡)、次男のロアク、末娘のトゥク、そして養子のキリとスパイダーである。キリは第一作で死亡した植物学者のアバターからパンドラ星の女神的存在エイワの力によって単為生殖で生まれた存在で、スパイダーは第一作からの宿敵クオリッチ大佐の息子である。しかも、これは映画内では初めて明言されたのだと思うが、スパイダーの母親は第一作のジェイクの反乱のときに地球人側の兵士として戦闘に参加し命を落としているのである。複雑である。さらに事態をややこしくしているのは、本作に登場するクオリッチは第一作で死んだクオリッチの記憶を引き継ぐクローンであるということである。クオリッチはパンドラ星の現地人を虐殺する極悪人だが、スパイダーに「お前は父の記憶を引き継いだだけの偽物だ」というようなことを言われるのはさすがにちょっとかわいそうな気もした。そういうわけで、本作は、スパイダーと、実の父親であって父親ではないクオリッチと、実の父親ではない父親であるジェイクの三者の関係が中心的なというか最終的なストーリーの軸となる。なんでこうなってるんだっけ?感のあるなんとも変な話である。

 アバターに登場する「家族」はジェイク一家だけではない。海沿いに住むナヴィと海洋生物トゥルクンは各々「魂の兄弟・姉妹」関係を結んでいる。また、パンドラには「エイワ」と呼ばれる植物の神経繊維ネットワークが広がっており、これが女神であってパンドラの全生命の母であるとされる。エイワには各生物が持つ「フィーラー」というコードのような部位を通じてアクセスできる。フィラーの形状は各生物によって様々だが、ナヴィ族の場合は後頭部から生えていて、サイバーパンク的…というか攻殻機動隊みたいだ。フィーラーはエイワだけでなく生物同士で精神的につながることもでき、今回登場した悪い魔女のようなナヴィ・ヴァランは自分のフィーラーを他人のフィーラーにつないで相手を行動不能にする攻殻機動隊の「電脳錠」のようなことをやっていた。このフィーラーというガジェットが、アバターの中でSF的に一番おもしろいのではないかと思う。

Avatar: Fire and Ash | Featurette - Creating Varang | In Cinemas Now(https://youtu.be/qUCevjEvEHo?si=XZANX3F4dT8yrU_q)より、フィーラーをつなぎクオリッチ大佐の精神を支配しようとするヴァラン。
 ……エイワに話を戻すと、フィーラーでエイワにつながるとそこには死後の魂が集まっており、死んだ人間と話すことができる。今作では次男ロアクが前作で死んだ長男ネテヤムとエイワで会話するところから始まる。さらに、登場人物の中では数少ない人間の身体を持っていたスパイダーまでも、キリがエイワと交信したことにより肉体改造され、マスクをしなくてもパンドラの空気を吸えるようになり、さらに後頭部からフィーラーが生えてくる(マスクをしなくてよくなったからキスができるようになったのである。すごい作劇だ)。本作の最後でスパイダーもエイワと交信し、かつて死んでいったナヴィの魂と出会い、家族として迎えられる。
 要するに、パンドラに住むものはみんな家族であり、家族はみんな味方ということである。これは、いいことなのだろうか。ちょっとよくわからない。血が繋がってなくても種族がちがくても別の星から来たものでもなんでもかんでも家族になれるというのはいいことなのかもしれない。けれど、「家族になろうよ、なったほうがいいよ~」という押し付けがましさも感じる。これは、正直言って気持ち悪いように思う。

読書

『雪密室』(法月綸太郎

 なぜ読もうと思ったのかというと、東浩紀の『セカイからもっと近くに』という評論集に、法月綸太郎シリーズについて扱った「法月綸太郎と恋愛の問題」という章があって、それを読んだから。この東浩紀の評論はミステリ的ネタバレはできるだけ避けようとしている評論で良かった。『セカイからもっと近くに』はその名の通りセカイ系についての評論なのだけれど、直接的にセカイ系とされる作品について論じるのではなく新井素子小松左京といったセカイ系より前の作者を扱い、セカイ系の問題と同じ問題に陥っていたことを指摘しそこからの脱出の可能性を探している。セカイ系の問題とは、小説(想像力)と現実が関係なくなってしまっているという問題だ。こう言ってしまえばなぜ法月綸太郎セカイ系の文脈で語られるかがわかると思うけれど、「社会派」との区別として「社会を描かない」のが「新本格」であるとすれば、それはセカイ系と同じであるというわけだ。
 ボクは新本格にそれほど興味があるわけではないけれど、社会派とセカイ系には興味があるので、新本格はその二つの間にあるのだといわれると、読んでみるモチベーションがぐぐっと上がったのである。
 「法月綸太郎シリーズ」は小説家の法月綸太郎と警視の父親が主人公のシリーズである(『雪密室』では基本的に父親の法月警視が視点人物だったが続刊ではどうなのかはしらない)。帯でも《法月親子は密室のトリックを解き明かせるか?》と書いてあるし、父親と息子がついに合流して本格的に推理が始まる場面で《では、法月家の男たちの好きなようにしますか》と決め台詞的に綸太郎に言わせて〈法月親子〉が活躍する話ですよと強調している。
 この親子関係について東浩紀は、父親と息子の関係としては親密すぎるのではないか?と主張している(そこから父子関係というよりも母子関係なのではないか、まさに宇野常寛のいう〈母性のディストピア 〉なのではないか、と東浩紀の議論は続く。『セカイ~』ではこの用語が何度か肯定的に使用されており、こんな時代もあったのかと今読むとなんともいえない気持ちになる文章だった)。
 そう思って読むとたしかに仲が良すぎるような気もする。東浩紀は父子の親密さを示す例として法月警視にとって綸太郎は《本当は自慢の息子なのだ》と説明する文章を引いているが、驚いたことに、この文章は序盤も序盤、法月警視がその場にいない綸太郎を初めて(読者に)説明する場面、つまりシリーズで初めて法月警視と綸太郎の関係が導入される場面なのだ。
 さて、本作『雪密室』で法月警視は招待されて長野にあるペンションに滞在する。単に招待されたのではなく、脅されていた。《あなたの息子は、あなたの子ではない》と。だがこの情報は実はフェイクで、ある男が工作のために流した嘘情報であることが後に明かされる。この男は法月警視の死んだ妻(綸太郎の母)の親戚で、元警察官僚の政治家だ。そういうわけで、若干の不穏感を残しつつも、法月警視と綸太郎は〈親子探偵〉としてそのシリーズをスタートする。しかし、「文庫版あとがき」で作者はこう書いている。

物語の整合性という点から見て、法月警視と綸太郎は実際には血がつながっていないという結論が最もふさわしいようにすら思えたのだが、しかし、シリーズ探偵の出自にあまりにも深刻な背景を与えることにためらいを覚えて、結局、 今のような形で書き終えた。悪く言えば、お茶を濁したことになる。

ここで作者が《物語の整合性》といっている意味は一読した限りではボクの読解力では今ひとつよくわからなかったのだが、ボクの考えとしても、綸太郎と法月警視は血の繋がりがないほうがよかったのではないか、とまではいわないまでも、なくても全然よかったのではないかという感じがする。
 本作は本格ミステリ的には〈雪密室〉がテーマなのだけれども、物語的には姻戚・親族・血縁関係の話が全体的な問題としてある。まず、本作は結婚式の場面から始まり結婚式の場面で終わる。法月警視を招待した人物と他の登場人物との関係も結婚に関係する複雑かつ奇妙な設定で、彼女は夫とともにペンションにやって来るのだが、そのペンションのオーナーは彼女の元夫なのである。そのほかにも血が繋がってると思ったら繋がってなかったみたいな話が複数あり、そもそも法月警視がペンションに来ることになったのは警視の死んだ妻の親戚である男に仕組まれたからであり、男が警視をペンションに送り込んだ理由は男の娘の婚約相手もまたペンションに招待されて(脅されて)いたからである。さらにこの人物が娘を結婚させようとしているのは、婚約相手の兄であるペンションのオーナーを〈姻戚関係〉の力によって再び官僚に戻すためなのである(オーナーは非常に優秀な官僚だったが、あることをきっかけに辞職し半分隠遁生活をしていた。婚約相手の弟もまた官僚)。その人物は法月警視に向かってこう言っている。

君は身内意識の欠落した男だからわかるまいが、姻戚関係というのは、コミュニケーションの形成において、馬鹿にならん力を持つ。

実質的にはこの人物が本作における黒幕であり、この人物を倒すことで本作は終わる(シリーズを通じた悪役として引っ張るのかと思ったらあっさり成敗したのには少し驚いた)。ことほどさように、姻戚関係・家族関係の厄介さ・奇妙さが、本作で法月警視がぶつかる問題なのである。だから、「物語」的には、法月警視は/本作はこの問題になんらかの解答をしたほうが、座りの良い物語になるはずだった。だのに、〈綸太郎は法月警視の実の息子ではない〉という疑惑を持ち出したのにも関わらず「あれ嘘ですから、ちゃんと血が繋がってますから」という話にあっさりなってしまうのでは、「日和ったな」という感想を持たざるをえないのだ。商業的・エンタメ的要請として〈親子探偵〉として打ち出す必要があったのではないかとは思うのだけれど、もし2026年にこういう物語を描くのであれば、血は繋がってないけど家族なんだ、家族じゃないけど家族なんだという話になってもおかしくないのではないか。《あまりにも深刻な背景》と作者は書いているけれども、たしかにそれをテーマに一本書いたほうがいい重大な要素ではあるが、2026年に読む物語としては「まあ、そういうこともあるか、それでもいいか」という程度のものではないかという感じがする(昨年の映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』がまさにそういう話だった)。

 さて、ここまで脇道というか裏道の感想しか書いてなかったので、もう少しストレートな感想も書いておく。率直にいって、とてもおもしろくて楽しい小説だった。別の言い方をすれば、シリーズ第一作として読者に楽しんでもらおう、好きになってもらおうという努力のようなものがとても伝わってきた。まず、小説家・法月綸太郎が主人公であるというメタ的な構造がうまく面白さに作用している。法月警視が長野のペンションに向かった一方で、綸太郎は東京で締め切りに追われている。警視がペンションにつき、何人かの招待客と顔合わせをし、そろそろ事件が起こるかなと読者が期待している40ページで警視は綸太郎に電話をかける。《「こっちは万事順調だ。小説は進んでいるか?」「さっぱりですよ。まだだれも死なない」》……「まあもう少し待ってください」と作者の法月綸太郎がこっちを見てきているようだ。そしてついに死体が発見された101ページでは《「どうだ、少しは原稿は進んでいるのか?」「まあね。やっと最初の死体が出てきたところです」「こっちもそうだ」》……と、〈本格ミステリ〉を読むこちらの気分をおおいに盛り上げてくれる。
 招待客たちが自己紹介する場面も気がきている。招待客の一人がつれてきた4歳の娘に、法月警視は肩車をせがまれる。そして肩に乗った娘に紹介されるかたちで各登場人物が描写されるのだ。「いつもの退屈な自己紹介シーンですけど、これなら楽しんでくれるでしょう!あとこのおっさん(警視)かわいいでしょう!好きになるでしょう!」という作者の意気込みが聞こえてくるようだった。
 さらに事件の解決のクライマックスには驚きのエンタメ要素、カーチェイスを投入してくる。それまで基本的にはペンションとその周辺だけが舞台の静かな作風だったのでびっくりしたが、これはすごいサービス精神だと思った。
 (ところで脱線だが日本のエンタメは物語の後半に(カー)チェイスを入れがちな気がする。チェイスシーンは映像的には動きが大きくテンションが上がるが、物語的・心情的には動きが基本的には乏しいので今更そんなことやってんなよ!と思うことが少なくない(具体例:『メイクアガール』『ChaO』)最後はとりあえず肉弾戦とされてもそれはそれで困る気もするのだが…)

 ……なんだか本当に褒めてるんだかよくわからないことを書いてしまったけれども、今度は一番面白かった要素を書く。それはなんといっても、法月警視が警察官であることだ。ボクは警察小説好きなので。法月警視が本作でやったことはなにか。それは、〈雪密室〉という不可能犯罪の謎を暴くことではない。そういう推理は綸太郎がやってくれるので、綸太郎が来るまで時間を稼ぐことが、本作の半分程度の分量で警視がやったことである。現場の状況と、例の親戚の男の圧力により、現地の警察によって事件は自殺として処理されようとしていた。それを阻止して「事件化」しようと警視は頑張るのである。それはなぜか。警視が警察官だからだ。いや、警察官の心を持っていたからだ。親戚の男と法月警視の会話にこんなくだりがある。

「井賀沼署の警部はどんな男だ」
「頭の切れる、優秀な刑事ですよ。ただ警官として、致命的な欠陥がありますが」

警視は男の指示に従えば昇進を約束されていたにもかかわらず、真相を暴くことを選んだ。〈警察官〉だったらどうするべきか。出世か、正義か(これは人としてやるべきことは何かという問いにそのままスライドしてもいいのだろうけども)。法月警視がその選択したのは、〈正義〉と〈真実〉を大事にする警察官/探偵だったからだ。そこにボクは胸打たれた。大変なのは、謎を解決することではない。謎を見つけ、その謎を追求すること、つまり「事件化」することなのだ。

 面白かった点をもう一つ。東浩紀の『セカイ~』では、探偵法月綸太郎セカイ系的問題から脱出する手がかりとして綸太郎の元カノ(久保寺容子)の存在を挙げている。綸太郎が父と子の〈母性のディストピア〉から脱出するためには、この女性についていくべきだというのである。この久保寺容子は、第一作である今作から登場している。それもかなり唐突に綸太郎のセリフの中で語られる。

 「十七の時に好きになった同級生の女の子が、右足をちょっと引きずる癖があって、 それを思い出したんです。一度だけデートしたけど、うまく行かなかった。僕が彼女の歩き方はチャーミングだってほめたら、ぶん殴られたんです。冗談じゃないわって。冗談じゃないって言いたいのは、こっちの方ですよ。僕は本気でそう思っていたのに」
 裕子は当惑したようだった。
「あなたは少し変わってるんじゃないかしら?」
「変わり者は、むしろ彼女の方でしょう」綸太郎はむきになって言った。「その娘は今、スレンダー・ガールズっていうロック・バンドでキーボードを弾いているんです」
「ねえ、法月さん」裕子はあきれ顔で尋ねた。「あなた、一体なにがおっしゃりたいの?」

すでにかなり面白そうなキャラクターである。彼女の本格的な登場が楽しみだ。(展開的にはフェードアウトしてしまうらしいけれど…)

 ここからはミステリ的なことを書く。ネタバレするので未読の方はとばしてお読み下さい。

 まず面白かったこと。〈雪密室〉とはいうが、犯人にとって雪はなくてもいいしなんならないほうがよかったかもしれないという、ある意味ごくごく当たり前の点に気づいたことである(いやこれはミステリ的に面白いのか?)。本作で犯人は衝動的に被害者を殺し、自殺に見せかける工作をしたあとで雪が積もっていることに気づく。そのせいで〈雪密室〉をつくるためにさらなる工作をせざるを得なくなる。そしてその工作を手がかりに犯行が暴かれることになる。もし雪が積もっていなかったらどうだっただろうか。密室ではないので警察は自殺と即断しなかったかもしれない。しかし、〈事件化〉し執念深く捜査しなにがしかの手がかりを見つけ出す警察官がいるかどうか…。あと不満点を一つ。さすがに寝ぼけてたとしても兄と弟を見間違えるってのは無理があるのじゃない?


「この人を見よ」(司村啓大)

novel.daysneo.com

なんなんすかねこれ?
江波光則先生が変名でカクヨムに載せていたらしい作品。江波先生がカクヨムに挑戦し敗北していった大変刺激的な記録はnote*1で公開されている。
歴史を別の体系に置き換えてしまう、という手法は円上塔が最近よくやっていると思うのだが、本作のように関西弁を使うと、こう、いいかげんな感じが出ていいんでないの。しらんけど。(使ってたっけ?)

作者に反応されてしまった。

 

アニメ

幼馴染とはラブコメにならない 第2話 「満員バスでも雨に濡れても好きがバレても憧れてもラブコメにならない」

まるでスポーツドリンクのように魂にスーッと入ってくるのだが、こんなものばかり喜んでいたら人間おしまいだという感がある。色が薄いのはどういう美的判断なのだろう。

死亡遊戯で飯を食う。#02 「Chains of ----」

意外と楽しめた自分に驚いたんだよね。二次元美少女がひどい目にあってるのを楽しむ気持ちが自分にあったのか、という。バンバンおもしろい死に方をしてほしい。というか、このデスゲームは別に強制じゃないらしいので、誰も応援する気が湧いてこないし誰が死んでもそこまで心が傷まないのだが、それでいいのだろうか。そもそも、「死亡遊戯で飯を食う」というコンセプト自体がメタのメタみたいなものであり、どういう態度で見ることが望まれているのかよくわからない。あまり真面目に見る気にならないもう一つの理由として、アニメの演出がいかにも真面目な作品ですよ感を出していおり「かっこつけてる」のはわかるのだが、実際かっこいいかというと「かっこいい風」なだけな印象で、逆に真面目に見る気をなくす効果を生んでいるように思う。まあ、変わった演出をすること自体は否定しないのだが。

編集者に反応されてしまった(いつもありがとうございます)

「牛が出てきた日」(火浦功)、ほか:星を壊せ。

今年はまめに更新しようということで、今週楽しんだコンテンツを記録します。

今週の一曲

youtu.be トロン:アレスのサントラを聞いてたら流れてきた。

小説

「牛が出てきた日」(火浦功

S-Fマガジン・セレクション 1984』収録。
昨年やってよかったこと=国会図書館の利用者登録。デジタルコレクションで無限に本が読める。これもデジタルコレクションで読んだ。*1S-Fマガジン・セレクション 1984』はその年にSFマガジンに掲載された作品のベストというだけあって傑作…とまでは言わないがエネルギッシュなパワーを感じさせる良作揃い。どの作品もとてもおもしろい。

古来インドでは牛は世界そのものの象徴であった。 ハーマラタ書より

まずハーマラタ書って本当にあるのか?という疑問があるが、〈牛が世界そのものである〉というネタで攻めた、ギャグ色の強い…というか一発ギャグ的作品。80年代的ノリなのかはどうかは知らないけれども、ゆるいノリの男子高校生・良一とその幼馴染で彼女の気の強い女子・エリが主人公。 政府の人間らしい男が牛を探している。良一が家に帰ると、部屋に牛がいた。そのことをエリに報告すると、エリは部屋に来て言う「きっとそうよ。国際的な陰謀。まちがいないわ。そして、事件の鍵が、この!」「牛よ!!」陰謀を暴くことに決めたエリは、牛にまたがりプラカードを掲げて街に繰り出す。牛のからだの模様は世界地図に似ていて…。 展開もキャラクターもマンガ的だが、この牛はなんなのか?という謎が世界そのものの謎に転移していく展開は実に真っ当なSF的展開でとても楽しい。魅力的なキャラクターだなと思ったところで地球滅亡エンド(コンビーフ缶になる)なのもSF的でよい。

「マーシェンカ」(水見稜

S-Fマガジン・セレクション 1984』収録。

「テレバシー?」 「それがどういうものなのかは知らん。しょせん使えぬものが産み出した用語なのだからな。」

セールスマンの男はとある惑星でトカゲ人間の劇団と出会い、なかでも有力な人気役者・マーシェンカと知り合う。マーシェンカは男の役をしていたので、主人公は当初マーシェンカのことを男だと思っていたが、じつは女(メス)だった。マーシェンカの一族は女しか生まれないのだ。マーシェンカのキャラクターと主人公との友情関係がよい。マーシェンカの一族は演劇のために創られたクローン一族であるというのも興味深い。しかし、SF的大ネタである、〈宇宙にはフィクションの”場”があり、マーシェンカにはフィクションをあやつる能力がある〉〈フィクション能力がぶつかりあい劇場が崩壊する〉という展開は、よくわからない。もう少しアイデアを膨らましてほしかった感。ただ、最後の一文は気がきていてよかった。「また会ったね、きみ。もう幕はおりてるんだぜ」

「セルメック」(草上仁)

S-Fマガジン・セレクション 1984』収録。
セルメックと呼ばれる万能工学素材を運ぶ宇宙船が舞台。セルメックは「半流導型超アメーバ生物群体」でプログラムを与えて育てることで何にでも成長する。宇宙船の故障した部位を輸送していたセルメックで交換していくうちに宇宙船のほとんどのパーツがセルメックになり、しかもプログラミングした主人公は専門家ではなかったためセルメックたちが勝手な動きを始める。混乱はあったものの無事に依頼主まで届けることができたが、依頼主はセルメックを武器に転用し宇宙船に攻撃をしかけてくる。 セルメックというアイデアを中心に、「ディレイ契約」(ウラシマ効果を使って支払い時期をずらす契約)という経済手法の存在する世界観、それを使った後半のアクションと破局的展開とSFエンターテインメントとしてとても楽しかった。

「《氷河》に吹く風」(内藤淳一郎)

S-Fマガジン・セレクション 1984』収録。
ハードSF。謎の生物からはじまり惑星の謎へ、そして宇宙の謎へ、最後は破局。それが人類の「無謀な資源開発」のせいであるというありがち…いや王道展開。
作者のデビュー作。作者の内藤淳一郎(本名:橋元淳一郎)は京都大学物理学部出身で東進ハイスクール物理科講師。参考書・啓蒙書を多数書いているようだ。作者の経歴的にも、作品の性格的にも、宮西建礼の「銀河風帆走」を思い出す作品だった。
主人公の探査員は一人乗りの宇宙船に乗ってとある惑星系に生息している《プラズマ・バード》と呼ばれる生物を調査している。プラズマ・バードは宇宙空間を飛ぶ巨大な蝶のような生物だ。プラズマ・バードを最初に発見したのは、資源開発企業の技術者。主人公は、その技術者がいた惑星へ向かう。その惑星はすでに資源が枯渇し放棄されていた。主人公が企業の施設に入ると、件の技術者が現れる。誰か来た時のためにホログラムを残していたのだ。主人公が惑星の調査を開始すると、惑星が崩壊を始める。惑星を覆う氷河が一つの知的な生物であったのだ。〈氷河〉は自分の知性を結晶に移植し、プラズマ・バードに託す。惑星系の太陽がスーパーノヴァ化する。惑星に埋まっていた資源が作り出す磁場が、太陽のスーパーノヴァ化を防いでおり、その資源を人間が採掘してしまったために惑星系全体が破滅してしまったのだ。それでも主人公は結晶のひとつを回収しており、結晶は覚醒のときを待っていた…。 登場人物が基本的に孤独であるというところが気に入った。
この作品だけじゃなく「牛が出てきた日」と「セルメック」も星が破滅して終わる。SFはとりあえず星を破壊しておくといいのかもしれない。星が壊れるほど世界観が大きいということなのだから。

「邪義の壁」(柴田勝家

アメリカン・ブッダ』収録。
仙台周辺が舞台。主人公の実家には白い壁があり、小さいころから念仏を唱えさせられていた。祖母の死後実家を整理すると、壁が崩れ死体が現れる。死体は百年以上前のものだった。死体を調査しているうちにまた壁が崩れ、今度は仏壇が現れる。そうこうしているとまたさらに壁が崩れ……。その壁には、そのときどきの異端信仰が埋められていたということである。邪教の物量作戦はちょっとおもしろいが、実質的にはネタは一つということだし、壁が崩れきったら向こうが見えてよかったね、と思ったらそれでは終わらず…というのも、まあでしょうねという。分量が短いからしょうがないというのもあると思うが、もうひとつくらいネタが絡むともっとおもしろかったか。

映画

死に損なった男(監督:田中征爾)

旧作。お笑いコンビ・空気階段の水川かたまり主演のホラーテイストコメディ。(WOWOWオンデマンドの紹介より)
凡庸な人間の凡庸な妄想、といった印象を受けた。現代社会に生きる平均的な人間であれば、こんなことがあったらいいな、世界がこうであったらいいな、と思うのではないかという程度の妄想を映像化したような。
構成作家の関谷一平はお笑いを仕事にする夢を叶えたものの、そこには「なにもなかった」と感じ自殺を決意する。ホームから見を投げ出そうとしたそのとき、隣の駅で人身事故が発生。死に損なった一平は事故の犠牲者を見つけ出し葬式に潜り込む。葬式から自室に帰ると、そこには謎の男が。一平「誰ですか…?」謎の男「お前がだれだ?」——男は事故で死んだ男だった。コメディというわりにはそこまで笑えるシーンが多いわけではないが、ここの「ですよねー」的納得感のあるツッコミ、幽霊とのファーストコンタクトにしては転倒した導入の場面にはとても笑わされた。で、一平は”娘につきまとう元旦那を殺せ”と幽霊の男に命令されたり、幽霊の男と一緒にコントをつくってうまくいったり、娘とくっつくのではなく職場の同僚?的な女性とイイカンジになったり、自分より成功しているように見える後輩も実は幽霊の男が見えていて…それはあの日後輩もまた同じ駅で自殺しようとしていたからだということがわかったり、元旦那も改心してキッチンカーを始めてみたりと、極めて凡庸なレベルでこうだったらいいのになあが詰まった物語だった。しかし、凡庸な幸せを納得させるのは案外大変で、脚本も俳優の演技もよかったからこそそれが可能になったのだと思う。

キラー・エリート(監督:ゲイリー・マッケンドリー

旧作。正月はステイサム!ということで。現在劇場では今年は「ワーキングマン」が上映されているが、まあそれは気が向いたときに。
本作は、OBは嫌だねえ、という映画である。殺し屋をやめたステイサムは故郷の農場(オーストラリアらしい)で、幼馴染の女性と一緒に静かに暮らしている。そこへ、かつての相棒で師匠(ロバート・デ・ニーロ)がへまをして人質になったという一報が。デ・ニーロを人質にしたオマーンの族長は、かつて息子をSAS隊員に殺された復讐を依頼していた。
殺し屋側のほうは、まあいつものやつということでおもしろみはない。が、狙われるSASのほうが面白い。元SAS隊員は、「フェザーメン」という秘密結社をつくり、元SAS隊員とその秘密を守っているのだ。ステイサムと対決するのはフェザーメンから送れられたエージェントだが、そのエージェントもフェザーメン、つまりSASのOBが政治的・経済的利益を得るために使われているだけであり、最後はステイサムとエージェントが「キラー・エリート」として共感しエージェントが後に殺し屋側に行くことを示唆して終わる。

漫画

くちびるへのリビドー(岡野トニー)

くちびるへのリビドー|カドコミ (コミックウォーカー)
読切。
女の子にキスしたい女の子の話。画力がすごい。同じリップグロスをつかったら実質キスじゃね?という謎バカ思考がおもしろい。キスがテーマなのにキスシーンが妄想しかないのはいかがなものか。いや、画としては見せてくれるんだから同じではないか。いや、本番に至るまでのストーリーを描いてこそなのではないか、いや、そこまでいかないからギャグとしていいのであり…。

フレンドガールフレンド(瑠夏子)

フレンドガールフレンド | マンガPark(マンガパーク)
連載(第一話)。
経験のために付き合ってみるんなら、じゃあ私でいいじゃん!で幼馴染の大親友と付き合うお話。少女漫画的な重くないノリが楽しい。

アニメ

多聞くん今どっち!? (第一話)

家事代行のバイトにいったら推しの家だったという話。ボクはアニメは二話から見るのが入りやすくてよいという主義なのでシーズンの序盤は様子見なのだが、これは早見沙織がヒロインということで視聴。本来はボクがターゲットの作品ではないのだろうが、体感一話の8割は早見沙織の声が聞こえるので大変幸福。
ヒロインの推しであるピンク髪の男は舞台の上以外では自己肯定感の低い引きこもり人間で、それを知ってしまったヒロインがなんとかがんばってもらうという話なのだろう。つまりこの作品は、推しに頑張ってほしい信者に感情移入して見ることもできるし、声が早見沙織の可愛い女の子に応援してもらうパフォーマー(労働者)のほうに感情移入して見ることもできるわけだ。
推しの男は、ぼざろの後藤ひとり、わたなれの甘織れな子に続くピンク髪で自己肯定感の低いキャラで、一つの流行としてみることもできそうだ。

その他

『思想としての60年代』(桜井哲夫

デジコレで読んだ。*2
「日本SFの誕生」という章がある。S・Fはセミオロジカル・フィクション(記号学的小説)の略だったかもしれないらしい。

*1:早川書房編集部 編『S-Fマガジン・セレクション』1984,早川書房,1985.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12504965

*2:桜井哲夫 著『思想としての60年代』,筑摩書房,1993.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13065644

『黒川さんに悪役は似合わない』感想:三島由紀夫と避難訓練

 
 

先日の11月25日、三島由紀夫の命日ということでポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』(Mishima: A Life in Four Chapters)を見た。前々からあちこちで噂を聞いていて見たいと思っていたので見れて良かった。噂の通りたいへん面白かった。
まあそれの感想はいつか書くかもしれないとして、今日は最近読んだラノベの感想について書きたい。なぜか三島由紀夫がネタにされていて、しかも個人的な経験とリンクするところがあったからだ。
『MISHIMA』の中で三島由紀夫は小説家という「見る存在」だけではなく「見られる存在」にもなりたいと考え様々な方法で自分を露出していたことが描かれていた。とはいえ現代で一番見られている三島由紀夫の姿は三島由紀夫vs東大全共闘の東大生と討論をしている三島由紀夫か、市ヶ谷駐屯地のバルコニーで自衛隊に向けて演説している三島由紀夫だと思う。そんな三島由紀夫自衛隊駐屯地での演説をネタにしたラノベが最近読んだハマカズシの『黒川さんに悪役は似合わない』(ガガガ文庫)だ。ずいぶん前から積読ラノベの山に埋まっていて気まぐれに読んだのだけど、なんの因果かちょうど三島由紀夫がネタにされていた。

黒川さんに悪役は似合わない (ガガガ文庫 は 6-4)

とある事情により真面目を信条にして生きている蝶野倫太郎は高校入学初日、女子をエロい目で見ていたことを生徒会長候補の黒川芽衣子に咎められ、取引を持ちかけられる。バラされたくなかったら——「私のために悪役(ヒール)になってくれない?」
ライトノベルには主人公が悪役になること、汚れ役になること、つまり傷つくことで作中の問題を解決するタイプの作品の系譜がおそらくあり(その代表作が本作と同じくガガガ文庫の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』)、本作はまさに〈主人公が悪役を演じること〉を主題にした作品だ。また、ライトノベルには高校生活における重要イベントの一つ(?)である「生徒会長選挙」をネタにした作品の系譜もあって(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』でもやはり重要なイベントとして登場する)、本作も生徒会長選挙もの。生徒会長選挙に立候補した黒川芽衣子は、不良を更生させることで信頼を得て生徒からの支持率を上げることを思いついき、蝶野に悪役になることを要求する。なぜ蝶野なのかというと、「悪役」は本当に不良ではだめで本来は真面目な人間が演じなければ作戦が成り立たないから。というわけで、奇妙にねじれた《マッチポンプから始まる波瀾万丈ラブコメディ!》が開幕する。

悪役を演じる真面目な人間の話、もしくは真面目に悪役を演じる話である。馬鹿みたいなストーリーだが、本作自体からも真面目な印象を受けるところがある。作者があとがきで《悪役の話を書くにあたり、私は悩んでおりました。悪役の気持ちがわからないのです。》と書いており、じゃあなんでこんな話書いたんだよ!とツッコミたくなるが、作中でも主人公が「なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ?」とツッコむ場面が何度かある。なんで俺がこんなことを?と思いながらもやるしかない、というのはフィクションでは定番のおもしろ展開で(『ダイ・ハード』とか)、そういう作品としてよくできている。しかもそれが女の子のポンコツな論理(=変なキャラクター)による要求のせいだとしたらライトノベルとしてとても楽しいものになるわけだ。
「悪役」に「ヒール」というルビが振ってあることからもわかるが、随所でプロレスネタを挟み込んでくる。どれくらいの人が気づくのかわからないウケ狙いのサービス精神だが、プロレスが元ネタだからってなんでそんなことを?感のある律儀な精神を感じる。
よい脚本の定番として、おなじセリフが最初と最後で違う意味を持つようになるというものがあると思うが、本作の決め台詞である「私のために悪役(ヒール)になってくれない?」というセリフも最初と最後の行に配置されており真面目だなあという感想を抱かせる。

さて、本作のクライマックスが例の三島由紀夫の演説をネタに出す展開だ。黒川と蝶野は支持率アップ作戦の仕上げとして避難訓練を利用することにする。訓練を抜け出して校舎の屋上に上がった蝶野が、校庭にいる黒川に説得されて屈服するところを全校生徒に見せるという作戦だ。これがまるで三島由紀夫みたいだとネタにされるわけである。

「そうよ。グラウンドから屋上の悪役を説得するって青春っぽくて最高よね。ほら、三島由紀夫みたいでかっこいいじゃない?国語の便覧にも載ってたわよね?ハチマキ巻いて」

 まさか屋上で割腹自殺しろっていうことじゃないだろうな?絶対死なないからな!

(p.204)

(訓練(リハーサル)と行為の違いはなんだ?というのは三島由紀夫的に重要なテーマなのではないかと思うのだが*1、あまり詳しくないので深堀りするのはやめておこう。)
無駄にスケールのデカいこの展開はそれ自体バカバカしくてよいのだが、この作品がクライマックスを〈避難訓練〉に持ってきたのは個人的に、というか、個人的経験に基づいて面白いと思った。それは、〈避難訓練〉から抜け出す可能性のある人間は、不良か、もしくは真面目なやつかのどちらかだからだ。どういうことか。学校の避難訓練では、校舎に人が取り残された場合を想定するケースがある。その「取り残され役」を任されるのは、教師から信頼された真面目なやつだけなのだ。(ボクはその経験がある。小学生のころに。昔は真面目だったのだ)
作者はそのことを念頭において書いたのかわからない。けれども、交わるはずのない真面目と不良が交差する場所として避難訓練をクライマックスの舞台に選んだのは、本作のテーマに合った良い演出だった。

続刊も読もうと思う(次は学生運動ネタらしい。なんでそんなことを…?)

 

*1:

《『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだろうか。もはやそれは無駄事ではあるまいか。》(『金閣寺』)

人間と人間以外/『銀河風帆走』(宮西建礼)感想

 ずいぶん前からミステリファンとSFファンは何が違うのかということを考えていたのだが、最近一つの答えにたどり着いた。

 ミステリファンは人間の話が好きで、SFファンは人間が嫌い・もしくは人間以外の話が好きなのではないか。

 ミステリでは基本的に人間の主人公が人間の仕掛けた謎を解き明かす。一方でSFは多くの場合謎は人間以外が引き起こしたもので主人公も人間ではない場合も少なくない。  
 ミステリファンとしては、人間や人間の心理が読みたくてミステリを読んでいるのではなく物理的なトリックや構造的な仕掛けが好きなのだという反論もあるだろうが、人間と人間以外の登場人物の割合を考えてみれば人間の話ばかり読んでいるのだから人間の話が好きなのだと言ってもまあ許されるだろう。

 

 5月4日に開催されたSFセミナーに宮西建礼先生が登壇するのに合わせて 短編集『銀河風帆走』に入っている表題作と『星海に没す』を読んだ。

 『銀河風帆走』は宮西建礼のデビュー作。しかも初めて結末まで書き上げた作品らしい。あらすじはざっくり言えば生存不可能になりつつある銀河系から人類が脱出しようとする話。主人公は、銀河間航行のために”建造”された人間。この時代の人間は2025年現在とはまったく異なる形態をしているが、あくまで人間ということになっているらしい。人間であるから性別もあり、主人公は「男性」で、ほかに「女性」が二人同行している。物語は「ぼく」(エトク)の一人称視点で進み、途中で「女性」のうちひとりのノチユが隕石に衝突し死亡し、「ぼく」ともうひとりの「女性」であるレラの二人旅がつづくが、終盤、銀河系から脱出しようというときに「ぼく」とレラは離れ離れになってしまう…。
 スケールがあまりにもデカい、大変おもしろいSFだ。でも、なんというか、「ぼく」と一人の「女性」の話が、話の描き方が、2000年代か2010年代前半っぽいなあと思った。まあそれもそのはずで、短編集が出たのは2024年だが『銀河風帆走』が創元SF短編を受賞したのは2013年なのだからあたりまえなのだが*1


 描き下ろしの『星海に没す』は『銀河風帆走』と似たシチュエーションの作品で、人類が生存困難になった太陽系から脱出しようする話*2。短編集に入っているほかの三作品は地球上の高校生を主人公にしているので、銀河規模の物語の『銀河風帆走』とのつながりになる中間的規模の作品が必要だと考えたらしい。こういうところにも、宮西建礼先生の真面目な執筆姿勢を感じられる。
 『星海に没す』も『銀河風帆走』と同じで宇宙船が主人公だが、こちらはAIで人間ではない。ほかの登場人物は主人公の助手役の「副頭脳」と、わけあって主人公を追跡・攻撃する宇宙船で、人間もちらっと登場するがほとんど人間以外の話である。
 さすがに、SF的なおもしろさ、ビジョン、スケールは『銀河風帆走』のほうが上だと思う。でも、『星海に没す』のほうが好きだなというか、今読みたい話だなと思った。なぜかといえば人間が出てこないからである。人間ではないから、性別もない。これもいい。  
 『星海に没す』は自我を持ったAGIである「わたし」と通常のAIである「副頭脳」の会話で話が進む。とくに副頭脳の性格が、いや、性格と呼べる性格もないのだが、この無表情だが頼れる相棒である副頭脳と「わたし」の人間ではないもの二人の会話がおもしろい。
 
 『銀河風帆走』と『星海に没す』の微妙な違いはなんなのだろうか。
 サイン会でズバリ聞いてみたところ、人間を主役にするときと人間以外を主役にするときと違いは意識しておらず、不完全な知性として同じものだ、ということらしい。
 たしかに、かき方としては違いはないのかもしれない。けれどもやはり、どちらも人工的に建造された宇宙船であるというのは同じなのに『銀河風帆走』のほうは人間という自意識をもっていて『星海に没す』のほうは持っていないのは興味深いと思う。

 『銀河風帆走』と『星海に没す』の似ている点はもう一つある。二人の登場人物が会話しながら物語が進むという点だ。そもそも『銀河風帆走』はこんな一文から始まる。

あらかじめ断っておくが、ぼくは普段、好き好んで彼女とのおしゃべりに応じているわけではない。

 そう、問題は会話だ。対話と言い換えて良いかもしれない。ボクは、人間以外の存在との対話を読みたいのだ。

『銀河風帆走』の会話は、人間同士の会話で、ある意味人間だから会話をしている。『星海に没す』は人間ではないものと人間ではないものの会話で、内容は生存のための業務連絡のようなものだ。

 『星海に没す』の終盤で「わたし」は追っ手の宇宙戦艦に攻撃され破壊されるが、生き残った副頭脳に修復される。しかしこのとき、植民用に運んでいた凍結受精卵も失われ「わたし」は存在意義を無くす。人間の命令から解き放たれた「わたし」は、広大な宇宙へ自分探しの旅を始める。ここからは想像だが、いつか気づくのではないか。たんなるサポートのための存在ではなく、対話する他者としての「副頭脳」という存在に。

 そんな、モノとの対話の話を読みたいなと思っている。

 

 

 

 

 

*1:会場で聞いた話によると、宮西先生は執筆する作品全体の男女のバランスは考えているようで(まじめかっ!)、短編集に収録されている『もしもぼくらが生まれていたら』は男子生徒が主人公、『されど星は流れる』は女子、『冬にあらがう』は男子と交互になっている。

*2:『星海に没す』は『冬にあらがう』と同じ世界の話らしい。