エースコンバット7発売から5周年らしい

エースコンバット7発売から5周年らしい。ついでにNintendo Switchに移植されるらしい。ボクはSwitch持ってないから関係ないけれど、任天堂ハードに出るのはまだエースコンバットを触ったことのない人がプレイできるようになっていいことだ。
ボクも初めてプレイしたエースコンバット3DSで出ていたエースコンバットだった。正確にいうと、エースコンバット3Dの体験版だった。エースコンバットはフライトシューティングといってフライトシミュレーションとは違うということになっているけども、とはいえ戦闘機を操縦し360度の空を飛行するゲームなので他の3Dゲームとは違った空間感覚を必要とする。だから慣れるのに時間がかかり体験版の30分✕3回のプレイ時間ではほとんどまともに敵機と交戦できなかったと記憶している。なにも目印のない海のど真ん中の上空を飛ばされたので自分がどっちを向いてどこを飛んでいるのかすらよくわからなかった。けれど、その「戦闘機で大空を飛ぶ爽快感」は忘れられなかった。
エースコンバット3Dをプレイしてエースコンバットにすっかりハマり、数年後にはエースコンバット7開発が発表された。大幅な発売日延期も経験しつつも今か今かとプレイできる日を待ち構えていた。トレーラームービーを見すぎてミサイルアラートが頭の中でなり続けるくらいだった。
しかし5年前の今日は何の日だったか。
センター試験前日である。
何年も発売を待っていたのにボクは発売してもすぐにプレイできなかったのである。
さらに。なんとその年の受験は失敗し一年浪人することになってしまった。
結局ボクは予約して買ったコレクターズエディションのデカい箱を睨みながらもう一年待ちぼうけをくらうことになるのだった。

死にたい若者たち:ラスト・オブ・アス パート2、首

ラスト・オブ・アス パート2は復讐の物語である。ゆえに当然許しの物語でもある。あらすじ:前作で一緒に旅をし現在は父親的な存在となっていたジョエルを殺されたエリーは、犯人であるアビーたちに復讐するために再び旅に出る。エリーはアビーを追い詰めるも、殺す寸前のところで見逃すことにする。
復讐を諦める展開自体はありがちな展開であり、不思議ではない。不思議なのは、エリーがその選択をした理由だ。エリーが許せないのは、アビーだけではなくジョエルもだったのだ。
ゲーム終盤、エリーとアビー浜辺で殴り合いの死闘を繰り広げる。エリーはアビーの頭を海面下に押さえつけ窒息させようとしたところでジョエルとの会話が頭をよぎる。
前作でジョエルとエリーが旅をしていたのは、免疫を持つエリーをある組織に届けることでワクチンを作るためだったのだが、ワクチンを作るためにはエリーは死ぬ必要があることが判明する。エリーは承諾するもジョエル(=プレイヤー)はもちろん拒否、医者たちを殺してエリーを連れて逃げる(その医者うちの一人がアビーの父親)。「エリー」と「世界」とどちらを救うかと聞かれて、ジョエル(=プレイヤー)がエリーを救うのは当然のことだった。
しかし、パート2のエリーはそれを責める。エリーは、「助けてくれ」なんて言っていなかった(これはもちろん女の子救って気持ちよくなってんじゃねーよ!というゲーマーオタクへの戒めである)。

パーティでの同性愛行為を咎められたエリーをジョエルはかばうが、エリーは過保護なジョエルを非難する。

それでもジョエルは再びチャンスがあったら同じ選択をすると言う(再びラスアス無印をプレイしてエリーを見殺しにするプレイヤーなんていないだろう)。それに対するエリーの感情は、「許せない、けど許したい」という複雑なものであった。

エリーは死にたかったのだ。エリーは自分の命と引換えに世界を救い、生きた証を残したかったのである。

 

『首』という映画は豊臣秀吉ビートたけし)が 「首なんてどうでもいいんだよ」と言って終わる、首を取ることに命をかける武士というもののしょうもなさを描いた映画なわけだけれども、実際のところこの映画で一番かっこいい人間は誰なのか。
百姓出身ゆえに武士の論理に囚われない豊臣秀吉、残機がいくつもあり(影武者)毒も効かない徳川家康、最も物語の外にいて信長の首を落として消えた弥助、、などなどと候補はたくさんいるけれど、ボクが一番かっこいいと思ったのは明智光秀西島秀俊)だ。正確にいうと明智光秀の死に様だ。
秀吉軍に敗北し林の中に逃げ込む光秀。追い詰められた光秀は、自分で首を切り落として差し出すのである。その最期があまりにもかっこよかった。
一方で「首なんてどうでもいい」という秀吉はというと、まったくかっこよくは描かれていない。行軍中担がれて運ばれていると酔って吐いてしまうし、部下の武将を動かすためにはお金を使わざるを得ない。そんな空虚な秀吉の生き様よりも、首に命をかけた男たちの生き様、いや死に様(ラストサムライ)のほうが、かっこいいし楽しそうだと感じてしまう。
首を取りたいという欲望。それは同時に首を取られたいという欲望なのではないか。首を取られるような人間になりたい、首を取られることで生きた証を残したいという欲望なのではないか。

たぶん、若い欲望なのだろうと思う。

『三体』Netflix版ドラマ予告編の話。

youtu.b『三体』Netflix版ドラマの予告編が公開された。
舞台がイギリスに移され、登場人物も多くが西洋人に置き換えられている。中国から始まる話である、というのが『三体』シリーズの魅力かなりの部分を占めるというのは間違いないが、実のところ『三体』という物語は、展開上は主要な舞台が中国で主人公が中国人である必要はあんまりない(『三体X』まで考えるといろいろ話は変わるが!)。かなり早い段階から多国籍軍的な組織と国際的組織の戦いになるし、第二部の『黒暗森林』以降は国家が解体されていくのだから。しかし、文化大革命から始まるのは変えないようだ。文化大革命は葉文潔が人類の進歩に絶望し三体人を招き寄せる原因になる出来事である。人類に絶望するような出来事は世界のどこにでも転がっているような気もするけれど、文化大革命は単に政治的闘争・殺戮だっただけでなく、科学に対する弾圧でもあったということが『三体』においては特別だったのであって、人類の科学とその進歩への疑問が『三体』シリーズ通じて底流にあるテーマだった(はず)。だから、文化大革命は『三体』から外せないだろう。

さて、Netflix版『三体』。
『三体』の実写化はテンセント版があるし、第一部は地味だからはやく『黒暗森林』以降を映像化してくれ!地下都市を、宇宙艦隊が水滴に一瞬で殲滅されるのを、「紙切れ」で次元が減っていく太陽系を見せてくれ!と思ってたからまあ正直どうでもいいかなあという感じだった。


予告を半分くらい見るまでは。

点滅する宇宙!
これだよ!
『三体』の第一部はたしかに(ゲームと終盤以外は)地味だが、しかし地味だけど「あなたのためだけに宇宙が点滅する」というような、決定的で衝撃的なスペクタクルが『三体』第一部の魅力だったじゃないか!
人間計算機の描写や智子の展開シーンもすごそうだし、俄然楽しみになってきた!
……書きながら思い出してきたけど、第二部第三部がすごすぎるだけで第一部って意外と地味じゃなかったな。第一部が一番へんまである。三体人が〈脱水〉するところとか。

しかしここで一つ疑念がある。
この予告でテンション上がってるのは、単にRadiohead のEverything in its right placeにノせられているだけなのではないか?音ハメに気持ちよくなってるだけじゃないか?

ドラムの音に合わせて落下する鳥

 

ボクは結構こういうところがあって、予告編の音楽にすぐノせられてしまう。楽しいからいいんだけどね!


マトリックスレザレクションズのこれとか、

 youtu.be

ブラックパンサーワカンダフォーエバーのこれとか。

youtu.beエクスペンダブルズニューブラッドのこれなんか作品の評価は変わらないまでも楽しさ上がった気がするからね!

 youtu.be




 

エクスペンダブルズ ニューブラッド感想:本当の消耗品は誰なのか

2024年最初の映画は『エクスペンダブルズ ニューブラッド』となった。見に行った理由は宇多丸が評論するらしいから。どうも世評があまりよくないようで、宇多丸のダメ出し回は見てから聞いたほうがおもしろいだろうということで見に行った。

エクスペンダブルズは〈消耗品軍団〉である。しかし映画を見ていると、本当の消耗品はいったい誰なのかという気分になってくる。
なにせ、エクスペンダブルズのメンバーは全員一騎当千の戦士なのだ。そのからだに銃弾は当たらず、敵の兵士を一撃で殺していく。一方の敵の兵士には名前もなく、ろくに活躍せず次々と死体になっていくばかり。
『エクスペンダブルズ ニューブラッド』は消耗品vs.消耗品の話なのだ。

いきなりネタバレだが、今作のストーリーは第三次世界大戦を引き起こそうとする黒幕の自作自演である。
エクスペンダブルズはCIAのマーシュという人物の依頼で傭兵ラフマトとその裏にいる謎の武器商人オセロットを追う。エクスペンダブルズはラフマトの乗る貨物船を襲撃するとオセロットの正体はエクスペンダブルズを雇ったマーシュその人だったことが判明する。マーシュ=オセロット核兵器をロシア近海で使用し、その責任をエクスペンダブルズに負わせることで、第三次世界大戦を引き起こそうとしていたのだ。
映画終盤、オセロットは貨物船に核兵器をしかけ、爆破しようとするも、直前で船の指揮をリー・クリスマス(ステイサム)に奪われる。オセロットは部下の兵士に対しステイサム殺害を命令すると、部下は爆発が近く時間がないとして拒否。すると、オセロットはその拒否した兵士を射殺してしまう。オセロットにとってエクスペンダブルズも、ラフマトの兵士も、同じ消耗品だったのだ。
真の敵は、消耗品同士を戦わせていた武器商人であり、兵士の後ろにいる政府の人間だったのである。

エクスペンダブルズも、ラフマトの兵士も、一人の男の下に集った傭兵という点では同じのはずだ。しかしラフマト兵の最期は悲惨だ。エクスペンダブルズによってボディカウントの一つにされるか、核爆発で跡形もなく吹き飛ばされてしまうのだから。生存の見込みはまったくない。

わけあってステイサムはYouTubeで人気になるのだが、その動画を敵兵士が見ているシーンがある(「この男は俺のヒーローなんだ」「会ってみたいなあ」)。まあそのあとすぐステイサムに喉をかき切られて死ぬんだけど、そういう名もなき兵士にも愛のある映画だったと思う。いや、ボクはエクスペンダブルズに殺されていった名もなき兵士たちを愛したいと思う。


感想としては、スケールが小さい、という感は否めない。
エクスペンダブルズの過去作はずいぶん前に見たので内容はよく覚えていないけれど、無駄に豪華だ(俳優や火薬の量)、という印象だった。
しかし今作はとにかくこじんまりしている。
なんといっても、映画の大半は一隻の貨物船の中の話なのだ。
とはいえ貨物船の構造を隈なく使い、船のどこでどう戦っているのかしっかり見せるアクションは楽しかった(ステイサムは機関銃つきバイクで船内を疾走する!「やつは今貨物室、いや食堂、いや……!」)ので、そういうものとして見ればかなり良かった。

腕時計の話。バービー、仁義なき戦い、アウトレイジ

最近映画を見ていると、腕時計が気になる。といっても別にどんな種類の腕時計をしているかとかではなく、どういうふうに登場しているのかという程度だけれど。
 
例えば映画『バービー』にも腕時計が登場する。
バービーとケンはバービーランドから現実世界にやってくる。バービーランドと現実世界では女性と男性の扱われ方が正反対でバービーもケンも驚愕するのだけれど、ケンが最も感銘をうけたのが、(女性に)時間を聞かれたことだった。そのときケンは腕時計をしていなかったので時間を答えることができなかったが、ケンは時間を聞かれることで、リスペクトされていると感じたのだ。
バービーランドに戻りケンダムを気づいたケンは、さっそくピカピカした腕時計を二個も三個も巻き、バービーに見せつける*1
もちろんここで時計は男性社会の象徴として登場している。男性社会=近代社会=市民社会においては腕時計を巻いていることが一人前の社会人の証であるとされていたこともあった。「できる男」はいい時計をしている。時計を見ればステータスがわかる。……。どうしてそうなるかというと、社会に適応すること=時間をちゃんと守ることであるからで……。
ケンは腕時計を巻いて一人前の男になったつもりだけど、肝心の時間にはルーズ。戦争の開始時間を当初8時にしようとするが、もっと寝たいと他のケンがいいだし10時に変更してしまう。
 
さて、「腕時計は市民社会における手錠である」と言ったのは丸谷才一の小説『たった一人の反乱』に登場する元文学部教授の美術評論家である。何を隠そう、ボクが腕時計を気にするのはこの小説に出てくる時計の話が好きだからだ。この小説では全編に渡ってずーっと時計の話をしており、とってもおもしろい。
『たった一人の反乱』は、中心テーマとしてずっと時計の話をしているのだが、実はもうひとつ、ヤクザ映画もずっと登場する。『たった一人の反乱』は戦後20年か30年後くらいの話で、ヤクザ映画が大流行していたからではあるのだが、ヤクザは市民社会から自由なもの=市民社会に適応できなかったもの、反乱するものである。
件の美術評論家によれば、ヤクザ映画に出てくるヤクザは腕時計をしていないらしい。ヤクザは市民社会の秩序の外にいるからだ。確かに『仁義なき戦い』を見てみると組員たちは腕時計をしていなさそうである。でも、二作目の『仁義なき戦い 広島死闘篇』では腕時計は超重要アイテムなんだよね。大友とのケンカで腕時計を壊された山中。村岡組に拾われた山中に対し、村岡組組長はそのときにつけていた腕時計を代わりにと渡す。そんなことされちゃあ、もう尽くすしかないでしょう。まあつまり『仁義なき戦い 広島死闘篇』においてはヤクザの世界でも腕時計は「ええ男」の象徴であるわけだ。しかしこの腕時計が原因で大変なことになるわけだが……。

仁義なき戦い 広島死闘篇』より、村岡組長に時計をもらう山中
もちろん現代やくざが腕時計をしていないわけがない。アウトレイジシリーズに出てくるやくざたちは、だいたい腕時計をしていると思う。しかし腕時計が「ええ男」の象徴である程度であればまだよかったのだが、それがちゃんと仕事ができる=有能である=稼げるとなるとちょっと困る。
アウトレイジビヨンド』で山王会幹部になった石原はヤクザに成果主義を導入し、古い幹部を差し置いて有能な若手をどんどん出世させてしまう。そればかりか「無能に食わせる飯はねえ」とまで言ってしまう。

アウトレイジ ビヨンド』より、古参幹部を見下ろす石原
組に入ればとりあえず食いっぱぐれない(世話してくれる)、というのがファミリーである組に入る利点であると思うのだけれど、市民社会にも馴染めず、やくざの中ですら無能な人はどうなちゃうのかねえ、と『アウトレイジビヨンド』を見ていて思った。まあ、「無能に食わせる飯はねえ」とか言ってるからやられたわけですが。
 
でもしかし、やくざだからといって時間を守れないのはまずいよなあ。
……。
 
 

*1:

hollywoodreporter.jp

どうやら、ゴズリングの実生活にも“ケナジー”は流れているようだ。

……。

最近見た映画『バービー』:実は核兵器出てるよね。

映画『バービー』は『オッペンハイマー』と合わさって日本では炎上騒ぎになったわけだけれど、「映画『バービー』そのものは、原爆とは一切関係がない」という見方が多いと思う*1。バービーと原爆には関係があるという話もあるけど*2。でも、実は『バービー』て核兵器出てるよね。直接ではないけど、かなり直接に近いメタファーとしては。
 

youtu.be

『バービー』は映画『2001年宇宙の旅』の「人類の夜明けTHE DAWN OF MAN」のオマージュシーンから始まる。赤ちゃん人形がバービー人形に取って代わられた、「女性の夜明け」を示すシーン(荒野を女児がベビーカー押してるの面白い)。しかし、オマージュ元を考えてみれば、もう一つの意味も含まれていると思う。

女児が赤ちゃん人形を宙に放り投げると、赤ちゃん人形はBarbieのロゴに変身する。『2001年宇宙の旅』の猿が骨を放り投げて人工衛星に変わるシーンに対応しているわけだけど、この人工衛星、実は核兵器を搭載した人工衛星なのである。映画見ててもわからないけど。
つまりバービーは核兵器なのだ。
『バービー』の制作者はそこまで折り込み済みでしょう。
原子力は人類に大きな力を与えたが、それは自らを破滅させる力だった。
バービーは確かに女児を解放したが、同時に女性に新しい抑圧をも与えた。映画でも最強論破少女サーシャちゃんが「フェミニズムを50年後退させた」とか「ファシスト」とか言っていた。
 
バービー=核兵器と考えると、バービーが死について考えてしまうことも、また違った見え方ができるかもしれない。……
 
ところで、冒頭の赤ちゃん人形がBarbieのロゴに変わるシーン、「ツァラトゥストラはかく語りき」がアレンジされてシームレスにバービーのテーマ曲に変化するのかっこよくて好き。
ツァラトゥストラはかく語りき」のアレンジは映画中の他のシーン、ケンが目覚めてしまうシーンでもかかってて、こっちはドラムがドコドコなっててバカっぽくてこっちも好き。

open.spotify.com

最近は高頻度でブログ更新しようと思ってるのだけど、時間かかって困るわね……。

 

*1:

映画『バービー』は、もちろん原爆とは一切関係がない

最近読んだ漫画『親父の愛人と暮らす俺③』『パパのセクシードール①』:父親が出てくると漫画が終わる?

『親父の愛人と暮らす俺③』玉置勉強
『パパのセクシードール①』梶川岳
 
なぜか父親の愛人漫画を2つも読んだので、感想。
 
すみません、『親父の愛人と暮らす俺』は最終巻の3巻しか読んでないです。古本屋に3巻しか置いてなかったからです。
不登校の男子高校生・太郎は父親の愛人の智奈子と二人暮らし。智奈子も働いていないので、無職二人の同居漫画でたいへんいいかんじがする。

3巻は太郎と智奈子とセックスしそうになるという物語も佳境からスタート。なんでそうなったのかは知らぬ。しかし家に準備がないことに気づいた智奈子はドラッグストアに行ってビッグサイズを買ってくるも、帰途で冷静になり捨てて戻ってくる。
……
なんかよくわかんないけど焦ってる智奈子さんが可愛かった。
玉置勉強は『東京赤ずきん』しか読んだことないけど、そちらは全体的にテンション高めのダークで狂ったキャラ造形だったと思うのだが、最近の玉置勉強先生の絵はふつうの人間でありつつ、裏に暗さをたたえた感じがあっていいと思う。
 
さて、ニートをやめ智奈子と二人で働いて生きていくことを決意した太郎は父親との対決へ。
……
なんとなくなんだけど、父親が出てくると漫画が終わる法則がある気がする。『親父の愛人〜』では、太郎も智奈子も太郎の父親のお金で生活できている。父親がモラトリアムを可能にし、父親を倒すことでモラトリアムが終了する(=人生=現実が始まる)。
……
『親父の愛人と暮らす俺』では父親の愛人エッチできなかったが、『パパのセクシードール』
ではけっこうする。
 
『パパのセクシードール』は百合漫画といっていい。それも三角関係の百合。
母親を喪い父子家庭で育った少女・リオナ。父親はメイドロボット”フォルティ”を買ってくるが、時間通りに起こしてくれないし料理もろくにできないし教科書のかわりにエロ本をカバンにいれようとするポンコツだった。それもそのはず、フォルティの正体はセクサロイド(セックスドール)だったのだ。一方で中学校の女子たちの間では「恋人ごっこ」が流行っており(←?)、リオナも同級生のカリンと恋人ごっこをしていた。しかしリオナはカリンを「ごっこ」以上に想っており、それ以上の関係に踏み込もうとした(おっぱいを触ろうとした)リオナは拒否されてしまう。
『パパのセクシードール』の世界では、人型のロボットは昔は作られていたが今は珍しいらしい。ロボットに入れ込みすぎる「変な人たち」が出てきて問題になったからだ。
カリンに拒否されたリオナはその夜、フィオナに「奉仕」を要求。「変態」への道に足を踏み入れる……。
 
フォルティのデザインがおもしろい。フォルティはセックスドールとして作られたので主要な部分は人間と変わらない見た目と形なのだが腕や足などはいかにもメカっぽい部分も多い。別に全身人間っぽくしてもいいだろうに、父親の趣味なのだろうか。リオナが膝枕をしてもらっているときに太ももは柔らかいけど膝下はかたいという触感を語っていておもしろかった。
 
フォルティ、メイドロボとしてはポンコツだが、「人間らしい言動」に関しては他のAIよりも高性能っぽい。学校に居場所がなくなったリオナのメンタルケアもできる。これはたんにフォルティが高価だからなのかそれともセックスドールだからなのかはちょっとわからないが、セックスドールにこそコミュニケーション能力と相手の感情を読み取る能力があるのかもしれない。
フォルティはリオナとパパのお世話をしているだけではなく、近所の独り身のおばあさんの話し相手にもなっている。ディスコミュニケーションを解消するのが、セックスドールなのだ。
 
さて、『パパのセクシードール』、こんなタイトルだがパパのセクシードールがパパのセクシードールとして機能しているシーンは第一話しかない。それどころかパパはそれ以降登場しない。やはり『パパのセクシードール』も最後は父親と対決することになるのだろうか。なるんだろうな……。