死にたい若者たち:ラスト・オブ・アス パート2、首

ラスト・オブ・アス パート2は復讐の物語である。ゆえに当然許しの物語でもある。あらすじ:前作で一緒に旅をし現在は父親的な存在となっていたジョエルを殺されたエリーは、犯人であるアビーたちに復讐するために再び旅に出る。エリーはアビーを追い詰めるも、殺す寸前のところで見逃すことにする。
復讐を諦める展開自体はありがちな展開であり、不思議ではない。不思議なのは、エリーがその選択をした理由だ。エリーが許せないのは、アビーだけではなくジョエルもだったのだ。
ゲーム終盤、エリーとアビー浜辺で殴り合いの死闘を繰り広げる。エリーはアビーの頭を海面下に押さえつけ窒息させようとしたところでジョエルとの会話が頭をよぎる。
前作でジョエルとエリーが旅をしていたのは、免疫を持つエリーをある組織に届けることでワクチンを作るためだったのだが、ワクチンを作るためにはエリーは死ぬ必要があることが判明する。エリーは承諾するもジョエル(=プレイヤー)はもちろん拒否、医者たちを殺してエリーを連れて逃げる(その医者うちの一人がアビーの父親)。「エリー」と「世界」とどちらを救うかと聞かれて、ジョエル(=プレイヤー)がエリーを救うのは当然のことだった。
しかし、パート2のエリーはそれを責める。エリーは、「助けてくれ」なんて言っていなかった(これはもちろん女の子救って気持ちよくなってんじゃねーよ!というゲーマーオタクへの戒めである)。

パーティでの同性愛行為を咎められたエリーをジョエルはかばうが、エリーは過保護なジョエルを非難する。

それでもジョエルは再びチャンスがあったら同じ選択をすると言う(再びラスアス無印をプレイしてエリーを見殺しにするプレイヤーなんていないだろう)。それに対するエリーの感情は、「許せない、けど許したい」という複雑なものであった。

エリーは死にたかったのだ。エリーは自分の命と引換えに世界を救い、生きた証を残したかったのである。

 

『首』という映画は豊臣秀吉ビートたけし)が 「首なんてどうでもいいんだよ」と言って終わる、首を取ることに命をかける武士というもののしょうもなさを描いた映画なわけだけれども、実際のところこの映画で一番かっこいい人間は誰なのか。
百姓出身ゆえに武士の論理に囚われない豊臣秀吉、残機がいくつもあり(影武者)毒も効かない徳川家康、最も物語の外にいて信長の首を落として消えた弥助、、などなどと候補はたくさんいるけれど、ボクが一番かっこいいと思ったのは明智光秀西島秀俊)だ。正確にいうと明智光秀の死に様だ。
秀吉軍に敗北し林の中に逃げ込む光秀。追い詰められた光秀は、自分で首を切り落として差し出すのである。その最期があまりにもかっこよかった。
一方で「首なんてどうでもいい」という秀吉はというと、まったくかっこよくは描かれていない。行軍中担がれて運ばれていると酔って吐いてしまうし、部下の武将を動かすためにはお金を使わざるを得ない。そんな空虚な秀吉の生き様よりも、首に命をかけた男たちの生き様、いや死に様(ラストサムライ)のほうが、かっこいいし楽しそうだと感じてしまう。
首を取りたいという欲望。それは同時に首を取られたいという欲望なのではないか。首を取られるような人間になりたい、首を取られることで生きた証を残したいという欲望なのではないか。

たぶん、若い欲望なのだろうと思う。