『ノック 終末の訪問者』:恐怖は幻想?

もう何週間も前に見たので細部を忘れているが、YouTubeの映画評論チャンネル「BLACKHOLE」で取り上げられていたので、気になることを一つ書いておく(まあ色々気になる映画だったが)。

『ノック』の主人公はゲイのカップル(アンドリューとエリック)である。二人は養子にとった娘とともに森の中の小屋で休暇を過ごしている。そこに奇妙な訪問者が現れて……という話である。

家族が森の中で暮らしているのは、明確には描かれてなかったかもしれないが、ゲイの家族として生きる上で社会と摩擦があったからであるはずである。

特にアンドリューは被差別意識が強い。そんなアンドリューに対し、エリックは「怖がっているだけだ」「怖がることはない」というようなことをいっていたと思う*1

ボクにはこれに既視感があった。

ボクは以前、とあるネット掲示板で反フェミニズム的人物とレスバをしたことがある。そのレスバ相手が、同じようなことを言っていたのだ。フェミニストは男性に不必要な恐怖を抱いている。フェミニストは「強い男性が弱い女性を支配しようとしている」と恐怖しているが、その恐怖は幻想である。なぜなら男性はそんなに強くないから。云々。

さて、無論、恐怖が幻想であるはずはない。ゲイの人や女性が感じている被差別意識や恐怖は実際の体験と結びついており、事実であり本物であるはずだ。

ということをわかってもらおうとボクはレスバを仕掛けたのだが、もちろんわかってもらえるはずはなかった。まあ、掲示板のレスバトルというのはそういうものである。

反差別活動をしている人に対し、差別は存在しないと主張する人は、「その恐怖は相手に対する無理解から来た無用な恐怖である」「相手を知ろうとすれば、恐怖は克服できる」と主張する。これは、一種のテンプレであるのかもしれない。

差別意識を「恐怖」と言い換えること。これによって何が行われたのか?何を行おうとしているのか?もう少し考えてみる価値があるかもしれない。

*1:アンドリューはエリックに比べてマッチョな傾向が強い人物として描かれていた。彼は暴漢に襲われたらボクシングを始め、銃を購入するような男なのだ。この、マッチョなアンドリューは訪問者たちの言っていることを理解できない(理解しようとしない)、一方のどちらかといえば女性的なエリックは訪問者たちの世界観に共鳴できる、というのは結構興味深いのではないかと思う。