『スパイダーマン:スパイダーバース』感想:ヒーローとは自己犠牲である、の先

スパイダーマン:スパイダーバース』を見た。新入生歓迎会で。三人も来てくれて喜ばしいかぎりである(志が低すぎないか?)。

 

フィスク=キングピンがどんな悪事をしてるのかよくわからないせいで若干ぼやけてる感があるが、ヒーローとはいかなるものか描かれていてアメイジング*1だった。

ヒーローの定義はいろいろあると思うが、その一つは「自分を殺すこと」*2だと思う。ヒーローと自己犠牲は切っても切り離せない。とはいえ、自己犠牲といっても、べつにアイアンマンみたいに死ねと言っているのではない。自分のためではなく、他人のために戦うのが「自分を殺す」ということであり、ヒーローということだ。そもそも、危険を顧みず悪いやつと戦うという時点で自分を殺しているようなものだ。

007のDVDでジェームズ・ボンドがヒーローと呼ばれていてちょっと違和感があったが、この定義にボンドは全く合致する。ボンドは女が大好きなはずなのに、女を手に入れて満足しない。いつもベッドを抜け出して危険な場所へ向かってしまう。これをヒーロー的行為と呼ばずして何と呼ぼう。ボンドは殺しを楽しんでいるのだから、自分のための行為なのではないか?という疑問もあろう。しかし、ある行為が自分のためであると同時に誰かのためであることはありえるだろうし、そのような行為だからといってヒーロー的ではないとは言えないと思う。

話が脱線した。スパイダーマンの話に戻るが、スパイダーマンも自分以外の誰かのためだけではなく自分のために戦っているのだ

アメイジングスパイダーマン=Bパーカーはいろいろだめになっているが、自己犠牲の心は忘れない。自分の世界に帰らなければ悲惨な死を迎えることをわかっていながら、加速器を破壊する役目を引き受けようとする。マイルズの命を救けようとする。だから彼はヒーローなのだ。

しかしおもしろいのは、Bパーカーが帰らなくていいと思っているのは、自分の世界に帰ってもしょうがないと思っているらしいというところだ。彼はMJとの仲がうまく行かず、腹も出てヒーロー活動を嫌になっている。しかし、マイルズを導き、マイルズに諭されることで、信じて飛んでみることにする。これは、ヒーロー活動が自分を救うことにもなっているということだ。ヒーローとは自己犠牲である、の先を見せている。

まあアメコミ映画はいつもそうだったということではある。ヒーロー活動を通して、自分が何ものであるかを掴んでいく。ヒーローになること、マスクをかぶるとは、自分が何者であるかを宣言するということだ。

そもそも、今回スパイダーマンは誰のために戦っていたのか。『スパイダーマン:スパイダーバース』はマルチバースを利用して、巧妙に「自分を救うヒーロー」を描いていた。だってマイルズが救ったのは、不幸にも知らない世界につれてこられてしまった別の世界のスパイダーマン=別の世界の自分なのだから。

*1:最近「すばらしい」が口癖なのだが、英語で言うとアメイジングであうる

*2:これは町山智浩三島由紀夫葉隠入門を紹介してたときに言ってたことである。