映画『レボリューション+1』感想:男が男を使うと、銃撃になるのか。
あらすじは書かないよ。
当然のことだが、銃撃にこだわった映画だった。
では、銃撃とはなにか。
もちろん射精のことである。
棒の先からなにかが射出されるのだ。射精以外の何物でもない。
男はやり場のない意思・欲望があるときに、射精をするのだ。
川上(映画では山上徹也は川上達也)はなぜか妹を呼び出しこう言う。
「女は女を使えていいよな」
女は男と違って女の魅力=武器を使えていいよなという、実にインセルでミソジニーな頭の悪い発言である。
が、では、男が男を使うとはどういうことなのか。
孤狼の血の一作目で、最後の逮捕に向かう前に瀧井銀次(ピエール滝)だったかが、海に向かって発砲する。一緒に見ていた後輩が「なぜこのようなことをするのかわからない」と言っていた。男でもわからないことがあるのだなと思ったが、日夜銃撃と射精のことしか考えてないボクのような人間でないとわかりづらいのかもしれない。
瀧井銀次は、このあと組織を裏切ることになっていた。そのやるせなさを、弾丸に込めて射出したのだ。
川上は、男を使えないことが強調される。自殺未遂をして入院し、同じ入院患者の女に迫られても彼女を抱くことができない。
フォークリフトのシーンでも「女はいない」とわざわざいう。
(〈男の発揮〉が〈女の所有〉でしかないことに書いてて涙が出てきましたが)
川上は劇中で何度も試し撃ちをする。そんなに撃ってばれないのか?銃は壊れないのか?と不安になってくるほど撃つ。
でも撃つ必要がある。なぜならこの試し撃ちは自慰だからだ。本番のための練習だからだ。川上の銃撃成功は、努力・練習の結果である。
映画の最初の方で、銃は二発目を撃つことができない。そのために川上は銃を調整する。また、弾をうまく当てることができない。そんなとき、自殺したはずの兄が現れる。統一教会に一矢報いようとして失敗した兄である。兄は「脇を閉めろ」みたいなアドバイスを川上にする。
ついに安倍晋三が奈良にやってくる。
川上は、安倍晋三を銃撃する。一発目は外れた。しかし、二発目を、兄のアドバイス通り落ち着いて撃つ。そして、殺害に成功する。
遂に本番で男を使用することができたのである。
ところで、この、川上(山上)の地元であり、鬱屈した時間を過ごした奈良に安倍晋三がやってくるというフィクションよりフィクションらしい展開はもっと強調してもいいとおもったのだが、意外と奈良という場所は強調されない。銃撃の直前、川上の青春のように見えた応援団が実は一人で学校の屋上でやっていたということが明らかになるシーンで奈良の盆地が映されるくらいである。
あと銃撃直前の時間つぶしのシーンもすばらしかった。川上は路地裏でスマホの音楽を聴きながら時間をつぶす。そのヒリヒリした緊張感が、体の動きを使って表現される。どうでもいいが、このシーンスマホの画面がLINEの画面だった気がするけどなんでだろう。山上徹也はツイッターをやっていたと言われていたのだから、ツイッターの画面でも映せばいいと思ったのだが、ツイッターは一度も出てこなかった。
さて、銃撃に成功した川上はどうなったかというと、
なんかあの世みたいな場所に行くのである。
しかも「俺は星に向かっている」とかよくわからないことを言っている。
川上は安倍銃撃によって童貞を卒業した結果、今までの鬱屈が解消してしまったのである。
まあこれは童貞卒業した男にはよくある話で、童貞卒業すれば男のルサンチマンはだいたい消えるのである。たぶん。童貞だから知らんけど。
妹が武道館に爆弾特攻して映画が終わるという案もあったそうだ。
それはそれでおもしろいと思うが(だって公開日は国葬当日なんだから)、妹は爆発しない。
女だからだ。
男が男を使うと、銃撃になる。
結局、川上が救ったのは自分の魂だけなのだ。
最後川上は死んだみたいな感じになってたが、べつに死んでない。留置所に入れられただけだ。
だから、川上は英雄ではないし、星にもなれない。
星になれるのは古来から死んだ者だと決まっているし、ヒーローは自分を殺さなければならない。
ヒーロー論は別に書くとするが、この映画は川上=山上を英雄として描いた映画ではない。
しかし、魂の救済のためには/このつまらない日常からの脱出のためには、銃を握らなければならないときもあるということだ。