最近読んだ本『闘争領域の拡大』:そりゃあ人生楽しくないよ。

最近読んだ本『闘争領域の拡大』/ミシェル・ウエルベック
 
資本主義社会の歪みが産んだ、現代モンスターといっても過言ではないわね。
 
読めと言われたので読んだ。ウェルベック初体験。どんな鬱小説なのかとワクワクドキドキしながら読んだが、意外と愉快な小説だった。いや、文字通り鬱小説だったけども。
 
内容は、闘争領域=資本主義=自由主義が経済だけでなく恋愛を含むあらゆる人間的生活の領域に広がった結果、人生に意味を見いだせなくなって、鬱になった男の話。
 
うーん、愉快ではあったが、あんまりピンとこなかったなあというのが正直なところ。
少なくとも前半、つまりティスランくんが死ぬところくらいまでは楽しく読んだ。
主人公とティスランくんがカフェに行ったりして酒を飲んでいるところは読んでて楽しかった。確かにアラサーの童貞のくせに若い女に言い寄るティスランくんは痛々しいし、醜いし、なにより身につまされて、つらい。けれどはたから見ている分には滑稽でおもしろい。悲劇は喜劇ってやつだ(誰よりも悲劇なのは言い寄られる娘たちだろうけど)。まあなんにせよ、酒を飲むのはいいもんだ。
後半はどうかというと、主人公は鬱病になり、僕の人生は苦しいし現代社会は苦しいというのを当たってるのか当たってないのかよくわからない理論を振りかけて延々語ってるだけなので、そんなに楽しくない。楽しくないうえにおもしろいのかもよくわからない。まあ、楽しませようと思って書いてないでしょうから、それでいいんだろうけども。
 
『闘争領域の拡大』の面白さ。これはストーリーがおもしろいといよりも、文体が読んでて楽しいというのが大きかった。簡潔で、テンポがいい。ユーモラスでもある。
 
ストーリーがおもしろくない。これは、主人公の人生がおもしろくないということだ。
そして、主人公の人生がおもしろくないことと、文体のおもしろさは、直結していると思う。
この小説の文体は、訳者解説でいわれているように、観察者の文体だ。
主人公は目の前で起こっていることを観察し、分析する。それによって、人々の生活のうちに張り巡らされた闘争を暴き出していく。例えば男たちがいかに常にマウントの機会を伺っているのかとか。これは、読んでいる分には滑稽で、楽しい。
けれど、それを一人称でやってしまうから大変だ。主人公は自分の人生をも観察者の視点から見てしまうのだ。これでは人生を楽しめるわけがない。人生を第三者の視点から眺めたら、意味を見つけるのは困難だろう。意味を問う(なぜ、なんのために私は生きてるの?)ことに、終わりはないからだ。とくに神を信じられなかったら深刻だろう。なにごとも楽しむには、没入しなきゃいけない。
 
主人公はどうして他の人々はまともに生きていけるのかわからないという。なぜなら世界には経済の領域と恋愛の領域、2つの闘争領域しかないからだ。
僕は具体的に理解できないんです。 どうしてみんなは生きていけるのか。僕の印象では、みんな不幸になってもおかしくない。つまり、 僕らはひどく単純な世界に生きている。この世の中にあるのは、支配力と金と恐怖をベースにしたシステムーこれはどちらかといえば男性的なシステムで、仮にこれをマルスと呼びましょう。そして誘惑と性をベースにする女性的なシステムです。これをヴィーナスと呼びましょう。そしてそれだけです。これで生きていけるでしょうか?
うーむ。しかし、神様ってのはなにもマルスとヴィーナスだけじゃない*1
ここは我らが酒の神、ディオニュソス様に登場していただこう。陶酔と祝祭、創造と芸術、狂気の神だ。
読んでてずっと疑問だったのだが、この主人公、趣味がない。何が好きなのかわからない。そりゃあ人生楽しくないよ。
酒飲んでアニメ見て、寝る。これでいいじゃないの。
ディオニュソスバンザイ!!

*1:

ところでマルス(アレス)とヴィーナス(アフロディーテ)て浮気した仲だよね。主人公がもっとも憎んでるのが、この浮気ってやつだ。
ヴェロニクはディスコだの恋人だのを経験しすぎていた。こうしたライフスタイルは人間を衰えさせる。 時に深刻な永遠に取り返しのつかないダメージを与える。
闘争領域が恋愛まで拡大した結果、人々は恋人を何人も持つようになった(もてるひとはね)。この資本主義経済的な交換可能性が、愛を不可能にしたというわけだ。人間すらも交換になったことが人間的生活をだめにしたというのはきっとそうなのだろう。けれど主人公の恋愛観にはにわかには首肯しかねる。どうも、主人公は、女性に対して性的な無垢さを過剰に要求しているのではないか。はっきり言ってミソジニー的ではないか。これが鬱の最大の原因ではないか。