最近読んだ本『闘争領域の拡大』:そりゃあ人生楽しくないよ。
資本主義社会の歪みが産んだ、現代モンスターといっても過言ではないわね。
僕は具体的に理解できないんです。 どうしてみんなは生きていけるのか。僕の印象では、みんな不幸になってもおかしくない。つまり、 僕らはひどく単純な世界に生きている。この世の中にあるのは、支配力と金と恐怖をベースにしたシステムーこれはどちらかといえば男性的なシステムで、仮にこれをマルスと呼びましょう。そして誘惑と性をベースにする女性的なシステムです。これをヴィーナスと呼びましょう。そしてそれだけです。これで生きていけるでしょうか?
*1:
ヴェロニクはディスコだの恋人だのを経験しすぎていた。こうしたライフスタイルは人間を衰えさせる。 時に深刻な永遠に取り返しのつかないダメージを与える。
最近見た映画『世界侵略: ロサンゼルス決戦』『コズミック・シン』感想:普通に頑張るのがいいじゃん。
イベント「ぼっち・ざ・ろっく!です。」のレポートというか感想というか日記
以下の文章は2023年4月23日ヒューリスティック東京で行われたアニメぼっち・ざ・ろっく!スペシャルイベント「ぼっち・ざ・ろっく!です。」の感想日記である。帰ったらすぐ書こうと思っていたが、今日という日をまた無駄にしていたら一週間近く経ってしまった。すでにして記憶が曖昧になってきているので虚偽情報があるやもしれぬ。
会場でメモを取ろうかとも思ったが、まさかの前から2列目という超いい位置で会場は暗くなるからスマホ使うのは憚れるしメモ帳開いてるやべーやつは他にいなかったのでメモは基本とってない。したがって覚えてることしか書いてないしあまり正確ではない。まだアーカイブ見れるからいいよね……?(4月30日まで)
はて、どうしてこんな記事を書いているのか。ぼっち・ざ・ろっく!の円盤を買ってしまったので、どうせ当たんないだろうけどせっかくだから一応応募しておくかーという軽い気持ちで応募したら当たってしまった。とんでもない倍率だったようでツイッターでは阿鼻叫喚の嵐となっており、若干申し訳ない気分であった。しかし当たってしまったので、ありがたく現地参加させてもらうことにし、まあせっかくなので記録を残してやろうということである。
物販
先行物販のために早めに向かう。
日比谷駅についたらとりあえず地上に出る。が、全然道を調べないでテキトーに歩いてたら普通に迷ってしまった。
「WORTH」を見にきたときにも思ったのだけど、日比谷の街は人々がハイソな感じがして歩いてるとだんだんつらくなってくるのである。ほんとにこんなところでアニメのイベントやるのか?と不安になってくる。
しかしそんなハイソな街に突然現れるゴジラ。
日比谷〜 pic.twitter.com/LnBKQgWr8s
— 有機栽培 (@MayaOverDrive) 2023年4月23日
https://twitter.com/MayaOverDrive/status/1650005642432901120?s=20
まあゴジラが見れたから迷った甲斐があったか。
しかしそもそも、日比谷線からヒューリスティック東京に行くには地上に出る必要がなかったのである(地下道から直通)。
物販会場へ。
うろうろしてようやく正しいエレベーターにたどり着く。エレベーターに乗った奴らはいかにもボクの同類な感じの方々でこのエレベーターで正しいと確信。
物販会場中央にはぼっちときくりの師弟コンビが。
ぼっち・ざ・ろっく!です。 pic.twitter.com/YkOAhZ0Qmk
— 有機栽培 (@MayaOverDrive) 2023年4月23日
今回廣井はまったく出番ないのにめっちゃ目立ってる!
そのあとは時間があったので代官山のSFカーニバルに行ってサインをもらったりした。
入場
入場〜 pic.twitter.com/ZBjTOZzEic
— 有機栽培 (@MayaOverDrive) 2023年4月23日
ぼざろのリアルイベントでは邦ロックが流れていると聞いていたが、今回も開演前には邦ロックが流れていた。詳しくないので全然わからなかったが、アジカンとか流れていたと思う。
ボイスドラマ1
開演時間になると、結束バンドメンバーによる諸注意のアナウンスが流れる。が、ぼっちは何言ってるのかよくわからないし虹夏は元気がいいし喜多はダメゼッタイとかいっててわけわかめな一方で、山田はいつもの落ち着いたしゃべりでタバコ喫煙女遊びは禁止音を聞け音をと言ってたのでまさかの山田が一番まともなアナウンス(?)。やりきったぼっちは「アナウンサー向いてますかねw」とかいういつもの展開。
開演するとモニターに下北沢の駅の映像が流れ、結束バンドのミニボイスドラマが始まる。どうやら大きな箱でライブが決まり、その下見をしに行くようである。この時点ではここ(ヒューリスティックホール東京)かな?と思ってたのだが……。バンドが有名になりついに高校中退できると妄想し喜ぶ後藤(「後藤ひとりが世界に見つかってしまう……!」)*1。さらに妄想は続き、有名になった喜多ちゃんがブランドを立ち上げ結束バンドから離れてしまうことを幻視し、昇天する後藤。
さて、この、意味不明な展開(大半がぼっちの奇行だが)が怒涛のように続く様こそ、まさにぼざろ的である。原作者のはまじあき先生がYouTube配信で言ってたことなのだが、ぼざろの強みはこのギャグの詰め込み量なのである。4コマ漫画は通常、起承転結の結にあたる1コマ目をオチにする。したがってふつうはギャグは4コマにつき一個である。しかしその1個がおもしろくなかったら、4コマ全体がおもしろくないということになってしまう。一方でぼざろは4コマ全部にギャグを詰め込む。そのため意味不明な展開も多いが、これがおもしろいのである。
ぼざろ特有のギャグの詰め込み。これは、読者/視聴者をとにかく楽しませようというサービス精神の現れである。そしてまた今回のイベントも、サービス精神の塊であった。
ぼっち・ざ・とーく 出張版
アニメ放送当時毎週配信されていた番組。ボクは聞いてなかったので内容はよく知らない。
コーナー名はうろ覚えなので全然違うかもしれない
コーナー1:何度見ても笑ってしまうシーン
結束バンドメンバーが選んだ何度見ても笑ったシーンを、映像を見ながら紹介するコーナー。まあどれも定番シーンで選出に面白みはないが、監督の斎藤圭一郎さんのコメントがついている。これがなかなか興味深かった。
まあここだよね。
さて、このシーンは原作より描写が強化されている。これは、監督いわく:ドラえもんじゃないんだからぼっちちゃんは押入れでは寝ないだろう→アー写は部屋に貼ってるのか。という連想によってこうなったらしい。結果とんでもない枚数刷ることになったけなげなぼっちちゃん……。
このへんで明らかになるのだが、アニメぼっち・ざ・ろっくの特徴である前衛的なシーンたちには合理的な理由づけがなされていたのである。
喜多郁代役長谷川育美さんチョイスは第7話の後藤家訪問回よりナウシカもどきシーン。
このシーンも原作と若干違う。原作ではぼっちはしおれるがぼっち胞子なんてものは出てこない。では、なぜ虹夏と喜多が倒れたのだろうか。合理的理由を考えた結果、ぼっち胞子が肺に入ったことによりが抜けてたことになったのである!
胞子と化したぼっちが歌う案もあったらしい。
山田リョウ役水野朔さんチョイスは第9話江ノ島回よりtropical loveのシーン。
ギタ男と一緒にいるのはギタ女という名前であることが判明する。ギタ男もギタ女も青山さんが声を当てている。ぼざろアニメにはこのようなさまざまテイストの前衛的な映像が挿入さされるが、これは後藤ひとりの想像力の豊かさを表しているという。このシーンは一人で録ったので誰も笑ってくれずさみしかったとか。
ここでtropical loveをみんなで言ってみるという、声優の矜持を試される展開に。
青山さんはアニメ通り、長谷川さんはラジオで話題になった(らしい)エロい上司風に、鈴代さんは会場からのリクエストでツンデレ風、最後にされた水野さんはやりづらそうだったがリクエストでクールに*2。さすが声優、どれも素敵なtropical loveであった。
伊地知虹夏役鈴代紗弓さんチョイスは第12話よりレインボー虹夏(ゲーミング虹夏)
一瞬のシーンなのでなんと4ループも見せてもらった。
ここも原作と描写が違う。
原作では上半身裸。カラーでそれはまずいとピチピチのTシャツを着せてみるもまだ肌色成分が多い→「虹」夏だからレインボーにしよう。映像的にもネタ的にもそっちのほうがおもしろいし。ということだそうである。合理的なレインボー虹夏なのだ。
どのシーンを見てるときも声優陣が「別のアニメ始まった」と言っていたが、実のところこの怪映像こそがぼっち・ざ・ろっく!なのである。
ところで、映像紹介のときにちらっと見えるミニキャラが可愛いかった。すぐにステージ上の映像がかぶってしまうので一瞬しか見えなかったが、他にどこで見れるのだろう。
コーナー2:思い入れの深いシーン
声優陣が演じてみて印象深かったシーン。やはり演者なので、誰よりもキャラクター解像度とその信頼性が高く面白かった。
水野さんチョイスは第4話より山田唯一の名言シーン*3。
水野さんいわく、このシーンでリョウがどんな人物なのかわかったらしい。つまり、リョウは伝えたいことは伝える人間なのだ。
青山さんチョイスは第5話よりぼっち覚醒シーン。
青山さんいわく、ぼっちが初めて内面を表に——ギターによって——出したシーンなのだ。演技が「これ」だとつかめたとか。
鈴代さんチョイスは第8話よりタイトル回収シーン。
このシーンでは、外で涼んでいた虹夏がぼっちに自分の夢を語る。虹夏には自分の大事な時間があるのだ。
「ぼっちちゃんのロック、ぼっち・ざ・ろっくを!」はオーディションのセリフでもあったらしく思い入れが深いそうな。
長谷川さんチョイスは第12話より保健室のシーン。
喜多が結束バンドで目指すべき場所を見つけた場面。
長谷川さんいわく、喜多はいつも中心的人物なので、人を支えたことはないのでは、だから新たな一歩を踏み出したのだとか。
喜多は盛り上げ役っぽいから自然な展開かなとボクなどは思っていたのだが、たしかにそうなのかもしれない。さすが声優、鋭い分析である。
ここで初めて「ひとりちゃん」呼びになるのは、文化祭ライブでぼっちちゃんを助けることによりようやく並べた(というほどでもないが)ということらしい。
コーナー3:ぶっちゃけで結束
結束バンドメンバーが各々にぶっちゃけた質問をするコーナー。ボクはあんまり声優の人となりには興味ないのでおもしろかったところだけメモっておく。
【声優と服】
青山さん→鈴代さんの質問で、「あげた服着てる?」
ぼざろの収録のときに服を大量にあげたらしい。他のラジオの収録のときに着ていたらしいのだが、ここで青山さんが言っていたのが「声優っぽい」。声優て服をお下がりするもんなのか……たしかに衣装代ばかにならないよな……と思ったり。
【Y字バランス】
たしか水野さん→長谷川さんの質問で、「Y字バランスが得意って本当?」
長谷川さんについて調べるとY字バランスが得意と書いてある。確かにできるのだが、しかし聞かれるたびに服装等の理由で披露したことがないという。本日もスカートだったので披露できず。そこで青山さんが言ったのが「貴様ら、のぞくなよ!」。
き、キサマだと!?(はいキサマらです!)。
ところで今日の結束バンドメンバーの服装はキャラのカラーにあった特別仕様でかっこよかった。
𝘛𝘩𝘢𝘯𝘬 𝘺𝘰𝘶.#ぼっち・ざ・ろっくです pic.twitter.com/cK8RkGbtnK
— TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」公式 (@BTR_anime) 2023年4月23日
ボイスドラマ2
たぶんこのへんでまたボイスドラマが流れる。いやぜんぜんこのへんじゃなかったかもしれん覚えてないわ。
虹夏とリョウの二人の会話。なんかリョウがいいこと風なことを言うも、虹夏は「ぼっちちゃんにお金返してない人がいっても説得力ない」的なツッコミをいれる(肝心のその前の会話を覚えてない!もはやなにも覚えてないじゃないか)。それに対し「宇宙的規模で見れば返済に早いも遅いもない」と山田。なんかいつぞやのぼっちみたいなこと言ってんな。ぼリョウか!?*4
ギターヒーローへの道-番外編-
次のコーナーはYouTubeで配信されていた青山さんが「青春コンプレックス」を弾けるようになるまでギターの特訓をする「ギターヒーローへの道」の番外編。たしか青山さんが初めてギターを触ったのはぼっちのオーディションのときなんじゃなかったか。
青山さん一人で弾くのかと思いきや、結束バンドメンバー登場。ボーカル長谷川育美、タンバリン鈴代紗弓、マラカス水野朔という構成で演奏。青山さんは練習の成果を発揮していて素晴らしい演奏だったが、鈴代さんのタンバリンの盛り上げが上手い!長谷川さん=喜多ちゃんのボーカルも聞けてもはや満足という感じだが、ここからがある意味本番である。
ミニライブ
待ちに待ったミニライブである。今回演奏されたのはopとed曲だった。
まずは長谷川さんボーカルの「青春コンプレックス」と「Distortin!!」。長谷川さんはステージで一人で歌うのは初めてだったそうだが、さすがの歌声であった。なんだかんだ言って「Distortin!!」聞いてるときが一番幸せなんだよなあ*5。いつぞやのきらら展で入手した喜多ちゃんのフルグラTシャツを着ていってよかった。
ところでライブ中周りを見てみると、ペンライト持ってきてる人が結構いる!山田がやめろって言ってただろ!ボクも一瞬サイリウム持ってこうかと思ったけど!
さて、演奏終了後「リョウ先輩!」と呼ぶと水野さん登場。
ステージは水野さんにバトンタッチ。次に歌うのはもちろん「カラカラ」である。
カラカラlive ver がかっこよすぎる!。けど山田がボーカルやったらこんな感じなんだろうな。
水野さんが「虹夏!」と呼ぶと鈴代さんが登場。「なにが悪い」を歌う。
わざわざ「立てるのは人差し指!」と警告して歌い始めていた。
最初はステージ上に鈴代さん(と楽器隊の方々)だけだったのだが、2番に入ると結束バンドメンバーが登場。みんなで踊る。ここでボクは初めて気づいたのだが、「Distortin!!」と「カラカラ」がメンバーそれぞれが何かやってるのに対して、「なにが悪い」だけみんなで踊ってるエンディング映像なのである。虹夏ちゃんの曲で踊れるというのは良いね。
全員ステージに戻ってきたので閉会の流れに。後ろにいたギターの三井律郎さんの後方保護者面みたいのが面白かった。
さて、ここで終わりか、まあさすがに「あれ」は歌わないよね……。
と思ったら。
ステージには青山さんが一人。
「転がる岩、君に朝が降る」の演奏である。
はまじあき先生も配信で自分のコンテンツのイベントでアジカン流れてて不思議な感じがしたと言っていたが*6、しかしたしかに、ぼっち・ざ・ろっくのアニメイベントでこれを聞かない手はない。
ここでエンディング曲についての話をしよう。アニメぼっち・ざ・ろっく!のエンディング曲は結束バンドの各メンバーが一人ずつ歌っている*7。ボクのような面倒なオタクは、「いや結束バンドのボーカルは喜多ちゃんなんだから結束バンド名義で他のメンバーボーカルなのはにゃあ……」とか思ってたりなかったりした。このことについて、原作音楽監修のInstantさんが自身のYouTube配信で語っていた。曰く、エンディングも喜多ちゃんだけが歌うという選択肢もあったが(いや、正確にあったと言っていたかは忘れたが)、全員が歌うほうがうれしいじゃんということだそうである。ぼざろ特有のそっちのほうが面白いならやるイズムがここでも発揮されているのだ。
ボイスドラマ3
さて、転がる岩も歌って今度はほんとに閉会に。
最後にもう一回ボイスドラマが流れる。そういえばなんの下見なんだっけと思っていたら……。
ボクはよくわからなかったが、漏れ始める「zepp……?」という声。飛行機が映り期待は確信に変わり、結束バンドLIVE-恒星- 2023.5.21 開催決定会場 Zepp Haneda (TOKYO)の発表である。会場の様子は公式のツイッターを見てもらったほうが良いだろう。オタクどもの奇声が晒されている。
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— TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」公式 (@BTR_anime) 2023年4月24日
結束バンドLIVE-恒星-
解禁の瞬間
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2023年5月21日(日)、
Zepp Haneda (TOKYO)にて開催決定🎸
プレイガイド先行受付中https://t.co/m9Jd12U0cP#ぼっち・ざ・ろっくです
アーカイブ配信中💫https://t.co/1eQIyVrONT#ぼっち・ざ・ろっく pic.twitter.com/nczsN13qpb
来月もライブかあ……草食べて生きていくか……。
*1:結束バンドの躍進の原作と乖離問題はInstantさんの配信でもネタにされてた。Instantさんの配信はアーカイブを基本残さない(高確率でおもらしするから)ので今(2023/04/29)ははまじあき先生とやってたブルアカガチャ配信しか見れない。
*2:ラジオは聞いていなかったのでよくわからないが、漏れ聞こえるところによると結束バンドメンバーで最もおとなしいのは、一番後輩であるとはいえ水野朔さんであるようである。今回も若干落ち着かない様子だったが、とても楽しそうであった。インタビューでも「生きていてよかった」とまで言っている。うーん、推せる!
*4:後藤ひとりと山田リョウのカップリングは「ぼ山」だと思っていたが、ぼっちは山田のことをリョウ先輩と呼ぶので「ぼリョウ」が正しいのかもしれない(正しいとは)。
*5:「Distortin!!」が一番好きな理由は、単純に歌詞とメロディーが好きとか喜多ちゃんがかわいいとかあるのだが、ぼざろアニメは後半は盛り上がりすぎて2号さんみたいな見方をしてたからというのもある。
*6:【詐欺】怒りの雑談しながらブルアカガチャ引く【撲滅】 - YouTube26分付近からイベントの話。
*7:全員が歌っているのだが、ぼっちちゃんだけカバー曲なのはよかったと思う。アニメでは「むむむむむ」で流されていたが、原作のほうではぼっちちゃんは本当はギターボーカルをやりたかったということが書かれている。したがってぼっちちゃんがボーカルをやるのはストーリー的キャラ的にでかいイベントになりそうなので、カバーでお茶をにごしたのはいい選択だったと思う。まあ、現状の結束バンド的にぼっちちゃんが歌うことはなさそうだが。それに、ぼざろのアニメ化をするならアジカンを歌ってほしいではないか!
『ノック 終末の訪問者』:恐怖は幻想?
もう何週間も前に見たので細部を忘れているが、YouTubeの映画評論チャンネル「BLACKHOLE」で取り上げられていたので、気になることを一つ書いておく(まあ色々気になる映画だったが)。
『ノック』の主人公はゲイのカップル(アンドリューとエリック)である。二人は養子にとった娘とともに森の中の小屋で休暇を過ごしている。そこに奇妙な訪問者が現れて……という話である。
家族が森の中で暮らしているのは、明確には描かれてなかったかもしれないが、ゲイの家族として生きる上で社会と摩擦があったからであるはずである。
特にアンドリューは被差別意識が強い。そんなアンドリューに対し、エリックは「怖がっているだけだ」「怖がることはない」というようなことをいっていたと思う*1。
ボクにはこれに既視感があった。
ボクは以前、とあるネット掲示板で反フェミニズム的人物とレスバをしたことがある。そのレスバ相手が、同じようなことを言っていたのだ。フェミニストは男性に不必要な恐怖を抱いている。フェミニストは「強い男性が弱い女性を支配しようとしている」と恐怖しているが、その恐怖は幻想である。なぜなら男性はそんなに強くないから。云々。
さて、無論、恐怖が幻想であるはずはない。ゲイの人や女性が感じている被差別意識や恐怖は実際の体験と結びついており、事実であり本物であるはずだ。
ということをわかってもらおうとボクはレスバを仕掛けたのだが、もちろんわかってもらえるはずはなかった。まあ、掲示板のレスバトルというのはそういうものである。
反差別活動をしている人に対し、差別は存在しないと主張する人は、「その恐怖は相手に対する無理解から来た無用な恐怖である」「相手を知ろうとすれば、恐怖は克服できる」と主張する。これは、一種のテンプレであるのかもしれない。
被差別意識を「恐怖」と言い換えること。これによって何が行われたのか?何を行おうとしているのか?もう少し考えてみる価値があるかもしれない。
*1:アンドリューはエリックに比べてマッチョな傾向が強い人物として描かれていた。彼は暴漢に襲われたらボクシングを始め、銃を購入するような男なのだ。この、マッチョなアンドリューは訪問者たちの言っていることを理解できない(理解しようとしない)、一方のどちらかといえば女性的なエリックは訪問者たちの世界観に共鳴できる、というのは結構興味深いのではないかと思う。
『スパイダーマン:スパイダーバース』感想:ヒーローとは自己犠牲である、の先
『スパイダーマン:スパイダーバース』を見た。新入生歓迎会で。三人も来てくれて喜ばしいかぎりである(志が低すぎないか?)。
フィスク=キングピンがどんな悪事をしてるのかよくわからないせいで若干ぼやけてる感があるが、ヒーローとはいかなるものか描かれていてアメイジング*1だった。
ヒーローの定義はいろいろあると思うが、その一つは「自分を殺すこと」*2だと思う。ヒーローと自己犠牲は切っても切り離せない。とはいえ、自己犠牲といっても、べつにアイアンマンみたいに死ねと言っているのではない。自分のためではなく、他人のために戦うのが「自分を殺す」ということであり、ヒーローということだ。そもそも、危険を顧みず悪いやつと戦うという時点で自分を殺しているようなものだ。
007のDVDでジェームズ・ボンドがヒーローと呼ばれていてちょっと違和感があったが、この定義にボンドは全く合致する。ボンドは女が大好きなはずなのに、女を手に入れて満足しない。いつもベッドを抜け出して危険な場所へ向かってしまう。これをヒーロー的行為と呼ばずして何と呼ぼう。ボンドは殺しを楽しんでいるのだから、自分のための行為なのではないか?という疑問もあろう。しかし、ある行為が自分のためであると同時に誰かのためであることはありえるだろうし、そのような行為だからといってヒーロー的ではないとは言えないと思う。
話が脱線した。スパイダーマンの話に戻るが、スパイダーマンも自分以外の誰かのためだけではなく自分のために戦っているのだ。
アメイジングスパイダーマン=Bパーカーはいろいろだめになっているが、自己犠牲の心は忘れない。自分の世界に帰らなければ悲惨な死を迎えることをわかっていながら、加速器を破壊する役目を引き受けようとする。マイルズの命を救けようとする。だから彼はヒーローなのだ。
しかしおもしろいのは、Bパーカーが帰らなくていいと思っているのは、自分の世界に帰ってもしょうがないと思っているらしいというところだ。彼はMJとの仲がうまく行かず、腹も出てヒーロー活動を嫌になっている。しかし、マイルズを導き、マイルズに諭されることで、信じて飛んでみることにする。これは、ヒーロー活動が自分を救うことにもなっているということだ。ヒーローとは自己犠牲である、の先を見せている。
まあアメコミ映画はいつもそうだったということではある。ヒーロー活動を通して、自分が何ものであるかを掴んでいく。ヒーローになること、マスクをかぶるとは、自分が何者であるかを宣言するということだ。
そもそも、今回スパイダーマンは誰のために戦っていたのか。『スパイダーマン:スパイダーバース』はマルチバースを利用して、巧妙に「自分を救うヒーロー」を描いていた。だってマイルズが救ったのは、不幸にも知らない世界につれてこられてしまった別の世界のスパイダーマン=別の世界の自分なのだから。
映画『レボリューション+1』感想:男が男を使うと、銃撃になるのか。
あらすじは書かないよ。
当然のことだが、銃撃にこだわった映画だった。
では、銃撃とはなにか。
もちろん射精のことである。
棒の先からなにかが射出されるのだ。射精以外の何物でもない。
男はやり場のない意思・欲望があるときに、射精をするのだ。
川上(映画では山上徹也は川上達也)はなぜか妹を呼び出しこう言う。
「女は女を使えていいよな」
女は男と違って女の魅力=武器を使えていいよなという、実にインセルでミソジニーな頭の悪い発言である。
が、では、男が男を使うとはどういうことなのか。
孤狼の血の一作目で、最後の逮捕に向かう前に瀧井銀次(ピエール滝)だったかが、海に向かって発砲する。一緒に見ていた後輩が「なぜこのようなことをするのかわからない」と言っていた。男でもわからないことがあるのだなと思ったが、日夜銃撃と射精のことしか考えてないボクのような人間でないとわかりづらいのかもしれない。
瀧井銀次は、このあと組織を裏切ることになっていた。そのやるせなさを、弾丸に込めて射出したのだ。
川上は、男を使えないことが強調される。自殺未遂をして入院し、同じ入院患者の女に迫られても彼女を抱くことができない。
フォークリフトのシーンでも「女はいない」とわざわざいう。
(〈男の発揮〉が〈女の所有〉でしかないことに書いてて涙が出てきましたが)
川上は劇中で何度も試し撃ちをする。そんなに撃ってばれないのか?銃は壊れないのか?と不安になってくるほど撃つ。
でも撃つ必要がある。なぜならこの試し撃ちは自慰だからだ。本番のための練習だからだ。川上の銃撃成功は、努力・練習の結果である。
映画の最初の方で、銃は二発目を撃つことができない。そのために川上は銃を調整する。また、弾をうまく当てることができない。そんなとき、自殺したはずの兄が現れる。統一教会に一矢報いようとして失敗した兄である。兄は「脇を閉めろ」みたいなアドバイスを川上にする。
ついに安倍晋三が奈良にやってくる。
川上は、安倍晋三を銃撃する。一発目は外れた。しかし、二発目を、兄のアドバイス通り落ち着いて撃つ。そして、殺害に成功する。
遂に本番で男を使用することができたのである。
ところで、この、川上(山上)の地元であり、鬱屈した時間を過ごした奈良に安倍晋三がやってくるというフィクションよりフィクションらしい展開はもっと強調してもいいとおもったのだが、意外と奈良という場所は強調されない。銃撃の直前、川上の青春のように見えた応援団が実は一人で学校の屋上でやっていたということが明らかになるシーンで奈良の盆地が映されるくらいである。
あと銃撃直前の時間つぶしのシーンもすばらしかった。川上は路地裏でスマホの音楽を聴きながら時間をつぶす。そのヒリヒリした緊張感が、体の動きを使って表現される。どうでもいいが、このシーンスマホの画面がLINEの画面だった気がするけどなんでだろう。山上徹也はツイッターをやっていたと言われていたのだから、ツイッターの画面でも映せばいいと思ったのだが、ツイッターは一度も出てこなかった。
さて、銃撃に成功した川上はどうなったかというと、
なんかあの世みたいな場所に行くのである。
しかも「俺は星に向かっている」とかよくわからないことを言っている。
川上は安倍銃撃によって童貞を卒業した結果、今までの鬱屈が解消してしまったのである。
まあこれは童貞卒業した男にはよくある話で、童貞卒業すれば男のルサンチマンはだいたい消えるのである。たぶん。童貞だから知らんけど。
妹が武道館に爆弾特攻して映画が終わるという案もあったそうだ。
それはそれでおもしろいと思うが(だって公開日は国葬当日なんだから)、妹は爆発しない。
女だからだ。
男が男を使うと、銃撃になる。
結局、川上が救ったのは自分の魂だけなのだ。
最後川上は死んだみたいな感じになってたが、べつに死んでない。留置所に入れられただけだ。
だから、川上は英雄ではないし、星にもなれない。
星になれるのは古来から死んだ者だと決まっているし、ヒーローは自分を殺さなければならない。
ヒーロー論は別に書くとするが、この映画は川上=山上を英雄として描いた映画ではない。
しかし、魂の救済のためには/このつまらない日常からの脱出のためには、銃を握らなければならないときもあるということだ。
映画『ワース命の値段』感想。前進ではなく立ち止まる勇気、リスペクト
あらすじはかかないよ。
この映画の見どころはなんといっても役者の演技だろう。それも被害者のそれではなく、弁護士たちのそれだ。被害者の話を聞いた弁護士達は、まさに「言葉が思いつかない」という表情をする。それはお悔やみを申し上げる〈アイムソーリー〉の表情であると同時に、困ったな=そんなこといわれてもどうしようもないよ、という表情だ。「お気持ちはわかりますが……」である。
映画を見る前、この映画がどんなストーリーになるのかイマイチ想像ができなかった。911被害者の命の値段を数えた男がいたという。では、彼の敵は何だったのか?それがよくわからなかったのだ。まあ、答えは単純で、自分だったというわけだ。「お気持ちはわかりますが……」という姿勢。被害者に寄り添う素振りを見せつつも、ただ自分の仕事を効率的に進めることにしか頭にない態度。それが、倒すべき敵だったのだ。
前進ではなく、立ち止まる勇気。それが、この映画の答えだ。立ち止まるとは、人を、数ではなく人として扱うこと。つまりリスペクトをもつことだ。
黒人職員の電話での面談が印象的だ。資料をファックスで送るのだが、コピー店があるか聞くも言い直し、「こちらで探しますね」という。ちょっとした親切心、思いやり、リスペクトが見れるいいシーン。
他に注目すべき要素は、新しく建築される家だろう。映画開始当初、つまり911直後はまだ測量をしていたが、終わる頃には完成している。崩れ落ちたwtcと、新しく建てられる家。
「あなたは橋ではない」と映画中でいわれる。被害者遺族のリーダーであるウルフはかつて、街の名物だった橋の取り壊しの反対活動をしていたが、結局橋は取り壊されてしまった。失意の中のウルフに911で亡くなった妻が投げかけたのが、「あなたは橋ではない」という言葉だ。橋は壊されたが、あなたが壊れたわけではない。だから、まだ他のことのために闘える。
ファインバーグは、そしてアメリカは何を建てたのか。
映画を見て思ったのは、「国」のお話だなあということ。
ブッシュ大統領はテロに対し「報復をためらわない」と宣言する。仲間が、私達が、国が攻撃されたという意識。被害者補償基金も国を守るため。そして命の値段をいくらにするかということも、国としてどうすべきかということだ。
英語について思ったこと。
アイムソーリーというのは良い言葉だとつくづく思う。相手の悲しみを思いやると同時に、ある種の謝罪も表明する。ケンリュウの『良い狩りを』でも触れられていたが、ちょうどいい表現だ。
ウルフから「あなたは橋ではない」という言葉を聞いたファインバーグは、「フォーチュンクッキーみたいだ」と言った。あちらでは意味深なことばといえばフォーチュンクッキーのようだ。
遺族一人ひとりに柔軟に対応すると方針を変更したファインバーグに対し、副マスターのカミールは賛意を示して「love it」というような表現を使っていた。チャーミングだ。