最近読んだ本『闘争領域の拡大』:そりゃあ人生楽しくないよ。

最近読んだ本『闘争領域の拡大』/ミシェル・ウエルベック
 
資本主義社会の歪みが産んだ、現代モンスターといっても過言ではないわね。
 
読めと言われたので読んだ。ウェルベック初体験。どんな鬱小説なのかとワクワクドキドキしながら読んだが、意外と愉快な小説だった。いや、文字通り鬱小説だったけども。
 
内容は、闘争領域=資本主義=自由主義が経済だけでなく恋愛を含むあらゆる人間的生活の領域に広がった結果、人生に意味を見いだせなくなって、鬱になった男の話。
 
うーん、愉快ではあったが、あんまりピンとこなかったなあというのが正直なところ。
少なくとも前半、つまりティスランくんが死ぬところくらいまでは楽しく読んだ。
主人公とティスランくんがカフェに行ったりして酒を飲んでいるところは読んでて楽しかった。確かにアラサーの童貞のくせに若い女に言い寄るティスランくんは痛々しいし、醜いし、なにより身につまされて、つらい。けれどはたから見ている分には滑稽でおもしろい。悲劇は喜劇ってやつだ(誰よりも悲劇なのは言い寄られる娘たちだろうけど)。まあなんにせよ、酒を飲むのはいいもんだ。
後半はどうかというと、主人公は鬱病になり、僕の人生は苦しいし現代社会は苦しいというのを当たってるのか当たってないのかよくわからない理論を振りかけて延々語ってるだけなので、そんなに楽しくない。楽しくないうえにおもしろいのかもよくわからない。まあ、楽しませようと思って書いてないでしょうから、それでいいんだろうけども。
 
『闘争領域の拡大』の面白さ。これはストーリーがおもしろいといよりも、文体が読んでて楽しいというのが大きかった。簡潔で、テンポがいい。ユーモラスでもある。
 
ストーリーがおもしろくない。これは、主人公の人生がおもしろくないということだ。
そして、主人公の人生がおもしろくないことと、文体のおもしろさは、直結していると思う。
この小説の文体は、訳者解説でいわれているように、観察者の文体だ。
主人公は目の前で起こっていることを観察し、分析する。それによって、人々の生活のうちに張り巡らされた闘争を暴き出していく。例えば男たちがいかに常にマウントの機会を伺っているのかとか。これは、読んでいる分には滑稽で、楽しい。
けれど、それを一人称でやってしまうから大変だ。主人公は自分の人生をも観察者の視点から見てしまうのだ。これでは人生を楽しめるわけがない。人生を第三者の視点から眺めたら、意味を見つけるのは困難だろう。意味を問う(なぜ、なんのために私は生きてるの?)ことに、終わりはないからだ。とくに神を信じられなかったら深刻だろう。なにごとも楽しむには、没入しなきゃいけない。
 
主人公はどうして他の人々はまともに生きていけるのかわからないという。なぜなら世界には経済の領域と恋愛の領域、2つの闘争領域しかないからだ。
僕は具体的に理解できないんです。 どうしてみんなは生きていけるのか。僕の印象では、みんな不幸になってもおかしくない。つまり、 僕らはひどく単純な世界に生きている。この世の中にあるのは、支配力と金と恐怖をベースにしたシステムーこれはどちらかといえば男性的なシステムで、仮にこれをマルスと呼びましょう。そして誘惑と性をベースにする女性的なシステムです。これをヴィーナスと呼びましょう。そしてそれだけです。これで生きていけるでしょうか?
うーむ。しかし、神様ってのはなにもマルスとヴィーナスだけじゃない*1
ここは我らが酒の神、ディオニュソス様に登場していただこう。陶酔と祝祭、創造と芸術、狂気の神だ。
読んでてずっと疑問だったのだが、この主人公、趣味がない。何が好きなのかわからない。そりゃあ人生楽しくないよ。
酒飲んでアニメ見て、寝る。これでいいじゃないの。
ディオニュソスバンザイ!!

*1:

ところでマルス(アレス)とヴィーナス(アフロディーテ)て浮気した仲だよね。主人公がもっとも憎んでるのが、この浮気ってやつだ。
ヴェロニクはディスコだの恋人だのを経験しすぎていた。こうしたライフスタイルは人間を衰えさせる。 時に深刻な永遠に取り返しのつかないダメージを与える。
闘争領域が恋愛まで拡大した結果、人々は恋人を何人も持つようになった(もてるひとはね)。この資本主義経済的な交換可能性が、愛を不可能にしたというわけだ。人間すらも交換になったことが人間的生活をだめにしたというのはきっとそうなのだろう。けれど主人公の恋愛観にはにわかには首肯しかねる。どうも、主人公は、女性に対して性的な無垢さを過剰に要求しているのではないか。はっきり言ってミソジニー的ではないか。これが鬱の最大の原因ではないか。

最近見た映画『世界侵略: ロサンゼルス決戦』『コズミック・シン』感想:普通に頑張るのがいいじゃん。

戦争映画が見たくて、というか銃撃音が聞きたくて、ネットフリックスにある『世界侵略: ロサンゼルス決戦』を見た。この映画、ぼくの中では『バトルシップ』と並んでオールタイムベスト級に好きな映画だと思ってたんだけど、ちゃんと見た記憶がなかった。見返したら、やっぱり大好きな映画だった。
 
内容は、世界各地の沿岸部に流星群らしきものが落下(最初の落下は東京湾)。その流星群の正体はエイリアンの軍団だった。エイリアンは世界各地の沿岸都市に攻撃を開始。ロサンゼルスを守るため、海兵隊は出動する……。
 
ここまで書いてみたけど、この映画これ以上でもこれ以下でもないんだよね。だってこの侵略してきたエイリアン、恒星間航行できる科学力がある割には軍事的に人類よりそんなに強いわけではなく、海岸から地道に攻めてくる。そしてアメリカ軍はそれを地道に撃退する。撃退できてしまう。バトルシップみたいに最後は老戦艦が出てきてドリフトするみたいな超展開で解決するわけではなく、普通に頑張って倒す。
 
でもこの普通感・地道感がこの映画のいいところだと思うんだよ。映画の冒頭20分くらいは、海兵隊の日常が描写されている。かつては戦場で活躍したけど、身体的精神的限界を感じて退役を考えている二等軍曹。昇進を喜ぶ妻の、膨らんだお腹にキスして家を出る少尉。結婚式の花を選ぶ兵士、童貞いじりする先輩兵士といじられる新人兵士……。このふつうの軍人たちが、ふつうに頑張ってふつうに戦う。
 
映画後半で、分隊は犠牲をだしつつ頑張って市民を救出して前線基地に帰ってくる。でもその前線基地は壊滅していた。分隊は残っていた物資を集めて他の救出ポイントを目指すんだけど、前線基地で死んだ兵士たちもしっかり映す。彼らも、普通の軍人で、普通に頑張って、普通に死んでいった。生き残ったものだけでなく、死んでいったものたちも忘れない。この眼差しが素晴らしいんじゃないか。まあ、そんなに珍しいものでもないかもしれないけど。
 
それなのにさあ、ウィキペディアで「独創性の不足」とか「陳腐な対話」とか言われてると悲しくなるよ。『ブラックホーク・ダウン』の敵をエイリアンにしただけだけど、エイリアンにしたのがいいんじゃん。独創性じゃん。そのエイリアンはそんなにおもしろいものじゃないけど、エイリアンが使ってるガジェットは結構おもしろかったよ。なぜか多脚のうえにロケットブースターがついてる分隊支援用の手動操作ミサイルランチャーとか、なぜか毎回ミサイルを多弾頭発射する無人機とか(派手でいい)。こんなもんだけど。確かに会話はおもしろくない。あんまり気が利いてない。それで終わり?みたいな会話がよくある。でもふつうの会話ってそんなもんでしょ。それがいいんじゃないか。
 
元前線基地で装甲車を手に入れた分隊はエイリアンを蹴散らしつつ(「道に鹿が出てきたらどうする?」「加速です!」)救出ポイントに到着し、救助ヘリに乗り込む。しかし上空から見てみると、敵の司令部らしきものを発見。これを破壊すれば無人機を無力化し、制空権を確保できる。偵察できるのは俺達しかいない!と、二等軍曹は一人地上に戻る。もちろん二等軍曹だけを行かせるわけもなく、他の分隊員たちも続いて降下。ここで感傷的なセリフがあったらやだなあと思ってると、「逃げろといっただろ」「二等軍曹が心配で」。二言でこの会話は終了、作戦会議に移る。これでいいじゃんねぇ。
で、敵司令部をどうやって破壊するかというと、普通に地対地ミサイル。でもその地対地ミサイルを誘導するために、レーザー照射しなきゃいけない。この映画の一番良いところはやっぱここだよ。この、軍人たちの連携。前線でレーザーを守ってる分隊員たちはもちろんだけど、後方でミサイルを発射してる人も頑張ってる。みんなで頑張って勝利する。これがいいんだよ。
さらにそのあとが素晴らしい。司令部を破壊されたエイリアンたちは退却し始める。それを見た分隊員たちはどうするのかというと、黙って見ているのではなく、逃げるエイリアンに追撃を加える。二等軍曹はライフルの弾薬がなくなって拳銃で撃ってる。いやもうぶち上がりですよ。
そのあとのエンディングもいいんだよねえ。臨時基地に帰還した分隊員。休憩もつかの間、二等軍曹は無言で弾薬を弾倉に詰め始める。それに無言で続く分隊員たち。ここでさらに胸が熱くなるんだよ。
この映画、基本的に自己犠牲バンザイみたいな映画。でも、それが軍人というものだし(「そのために給料もらってる」)、俺しかやれる人がいなかったら、やるんだよ。それがかっこいいんだよ。それがヒーローというものなんだよ。
 
ところでこれ東京にもエイリアン来てるはずなんだど、どうなったのかな。だれか『世界侵略: 東京決戦』つくってくれないかな。
 
さて、なんかこれでいいじゃんしかいってないけど、さすがにこれでいいじゃんとは言いづらい映画も見た。
 
LA決戦みたいなエイリアンと戦争する映画がみたくてTSUTAYAに行ってみると、ブルース・ウィリスがパッケージにいる『コズミック・シン』(2021年)という映画が面陳されてた。ブルース・ウィリスが出てる最近の映画ってことはそんなにおもしろくない映画なんだろうなと思って借りて見たら、やっぱりおもしろくなかった。
 
時は2524年。鉱山惑星でFC事案=ファーストコンタクトが発生する。この冒頭のシーンが何気にぼくのお気に入りで、この鉱山惑星には女性研究者?と男性警備員しかいない。でこの二人が「ここでやってみたかったんだ」「この星には俺達だけしかいないだぜ」とか謎にロマンチックなことをいいながらことに及ぼうとする。しかし期待も虚しくその前にエイリアンがやってきちゃうのだが……。
FC事案発生の報をうけた人類連盟のライル将軍(フランク・グリロ)は、元将軍のブルース・ウィリスを招集する。ブルース・ウィリスは人類連盟から離脱した勢力を「Q爆弾」によって惑星ごと消滅させたのだが、「野蛮すぎる」という理由で解任されていたのである。ファーストコンタクトが敵対的であることが判明したので、ライル将軍は先に敵文明を破壊するという宇宙に対する罪、「コズミック・シン作戦」を発動する。名前は超かっこいい(かっこよくない?)のだけど、しかし肝心の内容はというと、将軍と元将軍、FCに詳しい学者(ブルース・ウィリスの元妻)、あんまり頼りにならなそうな女性技術者、ライル将軍の甥を含む数名の兵士、という超少数精鋭で前線の惑星に乗り込み敵母星にQ爆弾を撃ち込むという、人類最大の危機にしては規模が小さすぎる作戦なのだ。少数精鋭なのはまあいいとして、なんで特殊部隊とかではなく将軍と元将軍という超重要人物な上に老人が前線にでなきゃならないのだ。
ツッコミどころはこのあともずっとあって終盤の展開はもうよくわからないのだけど、雑。あんまりおもしろくないしいろいろ足りてないけど、頑張ってるよ!て言いたかったんだけど、さすがにもう少しお話とか考えたほうがよかったのではないか。ブルース・ウィリスとエイリアンに寄生された元嫁の因縁・対決、将軍ブルース・ウィリスの選択と責任・後悔、老兵と新兵の継承、新兵の成長、いろいろ描けるし描こうとしてたのはわかるんだけど、詰めが甘いどころか雰囲気だけ。
というか、これブルース・ウィリスが出てる最後らへんの映画のはずなんだけど、ブルース・ウィリスはいろいろなものを失った老兵士として描かれてて、それでどうするかというとどうにもならないので、つらい。『キル・ゲーム』(2021年)の方は最強おじいちゃんでかっこよかったのに。
まあでも最後のシーンはよかったんじゃないかな。人類の危機を救った少数精鋭部隊は、ロードサイドのバーで敵降伏の報を聞いている。このバー、ロボットがバーテンダーだったり(ホログラムで表情をつくる。グラスに酒を注ぐのが下手)、ホログラムのバンドがいたりとSF的に気がきいていい。女性技術者とライル将軍の甥、まさかくっつくんじゃねえかなーと思ったらやっぱり最後はいちゃいちゃしてる。元妻を失ったブルース・ウィリスは、一人バーを出て星空の下へ。うーん別にそんなによくねえかな。でもふつうでいいんじゃない?
 
 

イベント「ぼっち・ざ・ろっく!です。」のレポートというか感想というか日記

以下の文章は2023年4月23日ヒューリスティック東京で行われたアニメぼっち・ざ・ろっく!スペシャルイベント「ぼっち・ざ・ろっく!です。」の感想日記である。帰ったらすぐ書こうと思っていたが、今日という日をまた無駄にしていたら一週間近く経ってしまった。すでにして記憶が曖昧になってきているので虚偽情報があるやもしれぬ。

会場でメモを取ろうかとも思ったが、まさかの前から2列目という超いい位置で会場は暗くなるからスマホ使うのは憚れるしメモ帳開いてるやべーやつは他にいなかったのでメモは基本とってない。したがって覚えてることしか書いてないしあまり正確ではない。まだアーカイブ見れるからいいよね……?(4月30日まで)

はて、どうしてこんな記事を書いているのか。ぼっち・ざ・ろっく!の円盤を買ってしまったので、どうせ当たんないだろうけどせっかくだから一応応募しておくかーという軽い気持ちで応募したら当たってしまった。とんでもない倍率だったようでツイッターでは阿鼻叫喚の嵐となっており、若干申し訳ない気分であった。しかし当たってしまったので、ありがたく現地参加させてもらうことにし、まあせっかくなので記録を残してやろうということである。

 

 

物販

日比谷線に乗ってヒューリスティック東京へ。

先行物販のために早めに向かう。

日比谷駅についたらとりあえず地上に出る。が、全然道を調べないでテキトーに歩いてたら普通に迷ってしまった。

「WORTH」を見にきたときにも思ったのだけど、日比谷の街は人々がハイソな感じがして歩いてるとだんだんつらくなってくるのである。ほんとにこんなところでアニメのイベントやるのか?と不安になってくる。

しかしそんなハイソな街に突然現れるゴジラ

 

https://twitter.com/MayaOverDrive/status/1650005642432901120?s=20

まあゴジラが見れたから迷った甲斐があったか。

しかしそもそも、日比谷線からヒューリスティック東京に行くには地上に出る必要がなかったのである(地下道から直通)。

 

物販会場へ。

うろうろしてようやく正しいエレベーターにたどり着く。エレベーターに乗った奴らはいかにもボクの同類な感じの方々でこのエレベーターで正しいと確信。

物販会場中央にはぼっちときくりの師弟コンビが。

今回廣井はまったく出番ないのにめっちゃ目立ってる!

 

そのあとは時間があったので代官山のSFカーニバルに行ってサインをもらったりした。

 

入場

ぼざろのリアルイベントでは邦ロックが流れていると聞いていたが、今回も開演前には邦ロックが流れていた。詳しくないので全然わからなかったが、アジカンとか流れていたと思う。

ボイスドラマ1

開演時間になると、結束バンドメンバーによる諸注意のアナウンスが流れる。が、ぼっちは何言ってるのかよくわからないし虹夏は元気がいいし喜多はダメゼッタイとかいっててわけわかめな一方で、山田はいつもの落ち着いたしゃべりでタバコ喫煙女遊びは禁止音を聞け音をと言ってたのでまさかの山田が一番まともなアナウンス(?)。やりきったぼっちは「アナウンサー向いてますかねw」とかいういつもの展開。

開演するとモニターに下北沢の駅の映像が流れ、結束バンドのミニボイスドラマが始まる。どうやら大きな箱でライブが決まり、その下見をしに行くようである。この時点ではここ(ヒューリスティックホール東京)かな?と思ってたのだが……。バンドが有名になりついに高校中退できると妄想し喜ぶ後藤(「後藤ひとりが世界に見つかってしまう……!」)*1。さらに妄想は続き、有名になった喜多ちゃんがブランドを立ち上げ結束バンドから離れてしまうことを幻視し、昇天する後藤。

 

さて、この、意味不明な展開(大半がぼっちの奇行だが)が怒涛のように続く様こそ、まさにぼざろ的である。原作者のはまじあき先生がYouTube配信で言ってたことなのだが、ぼざろの強みはこのギャグの詰め込み量なのである。4コマ漫画は通常、起承転結の結にあたる1コマ目をオチにする。したがってふつうはギャグは4コマにつき一個である。しかしその1個がおもしろくなかったら、4コマ全体がおもしろくないということになってしまう。一方でぼざろは4コマ全部にギャグを詰め込む。そのため意味不明な展開も多いが、これがおもしろいのである。

ぼざろ特有のギャグの詰め込み。これは、読者/視聴者をとにかく楽しませようというサービス精神の現れである。そしてまた今回のイベントも、サービス精神の塊であった。

 

ぼっち・ざ・とーく 出張版

アニメ放送当時毎週配信されていた番組。ボクは聞いてなかったので内容はよく知らない。

コーナー名はうろ覚えなので全然違うかもしれない

コーナー1:何度見ても笑ってしまうシーン

結束バンドメンバーが選んだ何度見ても笑ったシーンを、映像を見ながら紹介するコーナー。まあどれも定番シーンで選出に面白みはないが、監督の斎藤圭一郎さんのコメントがついている。これがなかなか興味深かった。

 

後藤ひとり役青山吉能さんチョイスは第4話よりアー写部屋。

まあここだよね。

さて、このシーンは原作より描写が強化されている。これは、監督いわく:ドラえもんじゃないんだからぼっちちゃんは押入れでは寝ないだろう→アー写は部屋に貼ってるのか。という連想によってこうなったらしい。結果とんでもない枚数刷ることになったけなげなぼっちちゃん……。

原作の押入れ(1巻p.66)とアニメのアー写部屋(イベントでもそうだったのだが、暗すぎるので露出を上げている)

このへんで明らかになるのだが、アニメぼっち・ざ・ろっくの特徴である前衛的なシーンたちには合理的な理由づけがなされていたのである。

 

喜多郁代役長谷川育美さんチョイスは第7話の後藤家訪問回よりナウシカもどきシーン。

このシーンも原作と若干違う。原作ではぼっちはしおれるがぼっち胞子なんてものは出てこない。では、なぜ虹夏と喜多が倒れたのだろうか。合理的理由を考えた結果、ぼっち胞子が肺に入ったことによりが抜けてたことになったのである!

胞子と化したぼっちが歌う案もあったらしい。

原作の後藤さんの呪い(1巻p. 101)とアニメのぼっち胞子

 

山田リョウ役水野朔さんチョイスは第9話江ノ島回よりtropical loveのシーン。

ギタ男と一緒にいるのはギタ女という名前であることが判明する。ギタ男もギタ女も青山さんが声を当てている。ぼざろアニメにはこのようなさまざまテイストの前衛的な映像が挿入さされるが、これは後藤ひとりの想像力の豊かさを表しているという。このシーンは一人で録ったので誰も笑ってくれずさみしかったとか。

ここでtropical loveをみんなで言ってみるという、声優の矜持を試される展開に。

青山さんはアニメ通り、長谷川さんはラジオで話題になった(らしい)エロい上司風に、鈴代さんは会場からのリクエストでツンデレ風、最後にされた水野さんはやりづらそうだったがリクエストでクールに*2。さすが声優、どれも素敵なtropical loveであった。

 

伊地知虹夏役鈴代紗弓さんチョイスは第12話よりレインボー虹夏(ゲーミング虹夏)

一瞬のシーンなのでなんと4ループも見せてもらった。

ここも原作と描写が違う。

原作では上半身裸。カラーでそれはまずいとピチピチのTシャツを着せてみるもまだ肌色成分が多い→「虹」夏だからレインボーにしよう。映像的にもネタ的にもそっちのほうがおもしろいし。ということだそうである。合理的なレインボー虹夏なのだ。

原作のムキムキ虹夏(2巻p.74)とアニメのレインボー虹夏

どのシーンを見てるときも声優陣が「別のアニメ始まった」と言っていたが、実のところこの怪映像こそがぼっち・ざ・ろっく!なのである。

ところで、映像紹介のときにちらっと見えるミニキャラが可愛いかった。すぐにステージ上の映像がかぶってしまうので一瞬しか見えなかったが、他にどこで見れるのだろう。

 

コーナー2:思い入れの深いシーン

声優陣が演じてみて印象深かったシーン。やはり演者なので、誰よりもキャラクター解像度とその信頼性が高く面白かった。

 

水野さんチョイスは第4話より山田唯一の名言シーン*3

水野さんいわく、このシーンでリョウがどんな人物なのかわかったらしい。つまり、リョウは伝えたいことは伝える人間なのだ。

 

青山さんチョイスは第5話よりぼっち覚醒シーン。

青山さんいわく、ぼっちが初めて内面を表に——ギターによって——出したシーンなのだ。演技が「これ」だとつかめたとか。

 

鈴代さんチョイスは第8話よりタイトル回収シーン。

このシーンでは、外で涼んでいた虹夏がぼっちに自分の夢を語る。虹夏には自分の大事な時間があるのだ。

「ぼっちちゃんのロック、ぼっち・ざ・ろっくを!」はオーディションのセリフでもあったらしく思い入れが深いそうな。

 

長谷川さんチョイスは第12話より保健室のシーン。

喜多が結束バンドで目指すべき場所を見つけた場面。

長谷川さんいわく、喜多はいつも中心的人物なので、人を支えたことはないのでは、だから新たな一歩を踏み出したのだとか。

喜多は盛り上げ役っぽいから自然な展開かなとボクなどは思っていたのだが、たしかにそうなのかもしれない。さすが声優、鋭い分析である。

ここで初めて「ひとりちゃん」呼びになるのは、文化祭ライブでぼっちちゃんを助けることによりようやく並べた(というほどでもないが)ということらしい。

コーナー3:ぶっちゃけで結束

結束バンドメンバーが各々にぶっちゃけた質問をするコーナー。ボクはあんまり声優の人となりには興味ないのでおもしろかったところだけメモっておく。

【声優と服】

青山さん→鈴代さんの質問で、「あげた服着てる?」

ぼざろの収録のときに服を大量にあげたらしい。他のラジオの収録のときに着ていたらしいのだが、ここで青山さんが言っていたのが「声優っぽい」。声優て服をお下がりするもんなのか……たしかに衣装代ばかにならないよな……と思ったり。

【Y字バランス】

たしか水野さん→長谷川さんの質問で、「Y字バランスが得意って本当?」

長谷川さんについて調べるとY字バランスが得意と書いてある。確かにできるのだが、しかし聞かれるたびに服装等の理由で披露したことがないという。本日もスカートだったので披露できず。そこで青山さんが言ったのが「貴様ら、のぞくなよ!」。

き、キサマだと!?(はいキサマらです!)。

ところで今日の結束バンドメンバーの服装はキャラのカラーにあった特別仕様でかっこよかった。

ボイスドラマ2

たぶんこのへんでまたボイスドラマが流れる。いやぜんぜんこのへんじゃなかったかもしれん覚えてないわ。

虹夏とリョウの二人の会話。なんかリョウがいいこと風なことを言うも、虹夏は「ぼっちちゃんにお金返してない人がいっても説得力ない」的なツッコミをいれる(肝心のその前の会話を覚えてない!もはやなにも覚えてないじゃないか)。それに対し「宇宙的規模で見れば返済に早いも遅いもない」と山田。なんかいつぞやのぼっちみたいなこと言ってんな。ぼリョウか!?*4

ギターヒーローへの道-番外編-

次のコーナーはYouTubeで配信されていた青山さんが「青春コンプレックス」を弾けるようになるまでギターの特訓をする「ギターヒーローへの道」の番外編。たしか青山さんが初めてギターを触ったのはぼっちのオーディションのときなんじゃなかったか。

青山さん一人で弾くのかと思いきや、結束バンドメンバー登場。ボーカル長谷川育美、タンバリン鈴代紗弓、マラカス水野朔という構成で演奏。青山さんは練習の成果を発揮していて素晴らしい演奏だったが、鈴代さんのタンバリンの盛り上げが上手い!長谷川さん=喜多ちゃんのボーカルも聞けてもはや満足という感じだが、ここからがある意味本番である。

ミニライブ

待ちに待ったミニライブである。今回演奏されたのはopとed曲だった。

まずは長谷川さんボーカルの「青春コンプレックス」と「Distortin!!」。長谷川さんはステージで一人で歌うのは初めてだったそうだが、さすがの歌声であった。なんだかんだ言って「Distortin!!」聞いてるときが一番幸せなんだよなあ*5。いつぞやのきらら展で入手した喜多ちゃんのフルグラTシャツを着ていってよかった。

ところでライブ中周りを見てみると、ペンライト持ってきてる人が結構いる!山田がやめろって言ってただろ!ボクも一瞬サイリウム持ってこうかと思ったけど!

原作2巻p.59

さて、演奏終了後「リョウ先輩!」と呼ぶと水野さん登場。

ステージは水野さんにバトンタッチ。次に歌うのはもちろん「カラカラ」である。

カラカラlive ver がかっこよすぎる!。けど山田がボーカルやったらこんな感じなんだろうな。

水野さんが「虹夏!」と呼ぶと鈴代さんが登場。「なにが悪い」を歌う。

わざわざ「立てるのは人差し指!」と警告して歌い始めていた。

最初はステージ上に鈴代さん(と楽器隊の方々)だけだったのだが、2番に入ると結束バンドメンバーが登場。みんなで踊る。ここでボクは初めて気づいたのだが、「Distortin!!」と「カラカラ」がメンバーそれぞれが何かやってるのに対して、「なにが悪い」だけみんなで踊ってるエンディング映像なのである。虹夏ちゃんの曲で踊れるというのは良いね。

全員ステージに戻ってきたので閉会の流れに。後ろにいたギターの三井律郎さんの後方保護者面みたいのが面白かった。

さて、ここで終わりか、まあさすがに「あれ」は歌わないよね……。

と思ったら。

ステージには青山さんが一人。

転がる岩、君に朝が降る」の演奏である。

はまじあき先生も配信で自分のコンテンツのイベントでアジカン流れてて不思議な感じがしたと言っていたが*6、しかしたしかに、ぼっち・ざ・ろっくのアニメイベントでこれを聞かない手はない。

 

ここでエンディング曲についての話をしよう。アニメぼっち・ざ・ろっく!のエンディング曲は結束バンドの各メンバーが一人ずつ歌っている*7。ボクのような面倒なオタクは、「いや結束バンドのボーカルは喜多ちゃんなんだから結束バンド名義で他のメンバーボーカルなのはにゃあ……」とか思ってたりなかったりした。このことについて、原作音楽監修のInstantさんが自身のYouTube配信で語っていた。曰く、エンディングも喜多ちゃんだけが歌うという選択肢もあったが(いや、正確にあったと言っていたかは忘れたが)、全員が歌うほうがうれしいじゃんということだそうである。ぼざろ特有のそっちのほうが面白いならやるイズムがここでも発揮されているのだ。

ボイスドラマ3

さて、転がる岩も歌って今度はほんとに閉会に。

最後にもう一回ボイスドラマが流れる。そういえばなんの下見なんだっけと思っていたら……。

ボクはよくわからなかったが、漏れ始める「zepp……?」という声。飛行機が映り期待は確信に変わり、結束バンドLIVE-恒星- 2023.5.21 開催決定会場 Zepp Haneda (TOKYO)の発表である。会場の様子は公式のツイッターを見てもらったほうが良いだろう。オタクどもの奇声が晒されている。

来月もライブかあ……草食べて生きていくか……。

 

帰りは会場からお堀を散歩して東京駅へ

 

 

*1:結束バンドの躍進の原作と乖離問題はInstantさんの配信でもネタにされてた。Instantさんの配信はアーカイブを基本残さない(高確率でおもらしするから)ので今(2023/04/29)ははまじあき先生とやってたブルアカガチャ配信しか見れない。

*2:ラジオは聞いていなかったのでよくわからないが、漏れ聞こえるところによると結束バンドメンバーで最もおとなしいのは、一番後輩であるとはいえ水野朔さんであるようである。今回も若干落ち着かない様子だったが、とても楽しそうであった。インタビューでも「生きていてよかった」とまで言っている。うーん、推せる!

*3: なのに別のミームが脳をよぎる……。

*4:後藤ひとりと山田リョウのカップリングは「ぼ山」だと思っていたが、ぼっちは山田のことをリョウ先輩と呼ぶので「ぼリョウ」が正しいのかもしれない(正しいとは)。

*5:「Distortin!!」が一番好きな理由は、単純に歌詞とメロディーが好きとか喜多ちゃんがかわいいとかあるのだが、ぼざろアニメは後半は盛り上がりすぎて2号さんみたいな見方をしてたからというのもある。

*6:【詐欺】怒りの雑談しながらブルアカガチャ引く【撲滅】 - YouTube26分付近からイベントの話。

*7:全員が歌っているのだが、ぼっちちゃんだけカバー曲なのはよかったと思う。アニメでは「むむむむむ」で流されていたが、原作のほうではぼっちちゃんは本当はギターボーカルをやりたかったということが書かれている。したがってぼっちちゃんがボーカルをやるのはストーリー的キャラ的にでかいイベントになりそうなので、カバーでお茶をにごしたのはいい選択だったと思う。まあ、現状の結束バンド的にぼっちちゃんが歌うことはなさそうだが。それに、ぼざろのアニメ化をするならアジカンを歌ってほしいではないか!

『ノック 終末の訪問者』:恐怖は幻想?

もう何週間も前に見たので細部を忘れているが、YouTubeの映画評論チャンネル「BLACKHOLE」で取り上げられていたので、気になることを一つ書いておく(まあ色々気になる映画だったが)。

『ノック』の主人公はゲイのカップル(アンドリューとエリック)である。二人は養子にとった娘とともに森の中の小屋で休暇を過ごしている。そこに奇妙な訪問者が現れて……という話である。

家族が森の中で暮らしているのは、明確には描かれてなかったかもしれないが、ゲイの家族として生きる上で社会と摩擦があったからであるはずである。

特にアンドリューは被差別意識が強い。そんなアンドリューに対し、エリックは「怖がっているだけだ」「怖がることはない」というようなことをいっていたと思う*1

ボクにはこれに既視感があった。

ボクは以前、とあるネット掲示板で反フェミニズム的人物とレスバをしたことがある。そのレスバ相手が、同じようなことを言っていたのだ。フェミニストは男性に不必要な恐怖を抱いている。フェミニストは「強い男性が弱い女性を支配しようとしている」と恐怖しているが、その恐怖は幻想である。なぜなら男性はそんなに強くないから。云々。

さて、無論、恐怖が幻想であるはずはない。ゲイの人や女性が感じている被差別意識や恐怖は実際の体験と結びついており、事実であり本物であるはずだ。

ということをわかってもらおうとボクはレスバを仕掛けたのだが、もちろんわかってもらえるはずはなかった。まあ、掲示板のレスバトルというのはそういうものである。

反差別活動をしている人に対し、差別は存在しないと主張する人は、「その恐怖は相手に対する無理解から来た無用な恐怖である」「相手を知ろうとすれば、恐怖は克服できる」と主張する。これは、一種のテンプレであるのかもしれない。

差別意識を「恐怖」と言い換えること。これによって何が行われたのか?何を行おうとしているのか?もう少し考えてみる価値があるかもしれない。

*1:アンドリューはエリックに比べてマッチョな傾向が強い人物として描かれていた。彼は暴漢に襲われたらボクシングを始め、銃を購入するような男なのだ。この、マッチョなアンドリューは訪問者たちの言っていることを理解できない(理解しようとしない)、一方のどちらかといえば女性的なエリックは訪問者たちの世界観に共鳴できる、というのは結構興味深いのではないかと思う。

『スパイダーマン:スパイダーバース』感想:ヒーローとは自己犠牲である、の先

スパイダーマン:スパイダーバース』を見た。新入生歓迎会で。三人も来てくれて喜ばしいかぎりである(志が低すぎないか?)。

 

フィスク=キングピンがどんな悪事をしてるのかよくわからないせいで若干ぼやけてる感があるが、ヒーローとはいかなるものか描かれていてアメイジング*1だった。

ヒーローの定義はいろいろあると思うが、その一つは「自分を殺すこと」*2だと思う。ヒーローと自己犠牲は切っても切り離せない。とはいえ、自己犠牲といっても、べつにアイアンマンみたいに死ねと言っているのではない。自分のためではなく、他人のために戦うのが「自分を殺す」ということであり、ヒーローということだ。そもそも、危険を顧みず悪いやつと戦うという時点で自分を殺しているようなものだ。

007のDVDでジェームズ・ボンドがヒーローと呼ばれていてちょっと違和感があったが、この定義にボンドは全く合致する。ボンドは女が大好きなはずなのに、女を手に入れて満足しない。いつもベッドを抜け出して危険な場所へ向かってしまう。これをヒーロー的行為と呼ばずして何と呼ぼう。ボンドは殺しを楽しんでいるのだから、自分のための行為なのではないか?という疑問もあろう。しかし、ある行為が自分のためであると同時に誰かのためであることはありえるだろうし、そのような行為だからといってヒーロー的ではないとは言えないと思う。

話が脱線した。スパイダーマンの話に戻るが、スパイダーマンも自分以外の誰かのためだけではなく自分のために戦っているのだ

アメイジングスパイダーマン=Bパーカーはいろいろだめになっているが、自己犠牲の心は忘れない。自分の世界に帰らなければ悲惨な死を迎えることをわかっていながら、加速器を破壊する役目を引き受けようとする。マイルズの命を救けようとする。だから彼はヒーローなのだ。

しかしおもしろいのは、Bパーカーが帰らなくていいと思っているのは、自分の世界に帰ってもしょうがないと思っているらしいというところだ。彼はMJとの仲がうまく行かず、腹も出てヒーロー活動を嫌になっている。しかし、マイルズを導き、マイルズに諭されることで、信じて飛んでみることにする。これは、ヒーロー活動が自分を救うことにもなっているということだ。ヒーローとは自己犠牲である、の先を見せている。

まあアメコミ映画はいつもそうだったということではある。ヒーロー活動を通して、自分が何ものであるかを掴んでいく。ヒーローになること、マスクをかぶるとは、自分が何者であるかを宣言するということだ。

そもそも、今回スパイダーマンは誰のために戦っていたのか。『スパイダーマン:スパイダーバース』はマルチバースを利用して、巧妙に「自分を救うヒーロー」を描いていた。だってマイルズが救ったのは、不幸にも知らない世界につれてこられてしまった別の世界のスパイダーマン=別の世界の自分なのだから。

*1:最近「すばらしい」が口癖なのだが、英語で言うとアメイジングであうる

*2:これは町山智浩三島由紀夫葉隠入門を紹介してたときに言ってたことである。

映画『レボリューション+1』感想:男が男を使うと、銃撃になるのか。

あらすじは書かないよ。

 

当然のことだが、銃撃にこだわった映画だった。

では、銃撃とはなにか。

もちろん射精のことである。

棒の先からなにかが射出されるのだ。射精以外の何物でもない。

男はやり場のない意思・欲望があるときに、射精をするのだ。

 

川上(映画では山上徹也は川上達也)はなぜかを呼び出しこう言う。

「女は女を使えていいよな」

女は男と違って女の魅力=武器を使えていいよなという、実にインセルミソジニーな頭の悪い発言である。

が、では、男が男を使うとはどういうことなのか。

 

孤狼の血の一作目で、最後の逮捕に向かう前に瀧井銀次(ピエール滝)だったかが、海に向かって発砲する。一緒に見ていた後輩が「なぜこのようなことをするのかわからない」と言っていた。男でもわからないことがあるのだなと思ったが、日夜銃撃と射精のことしか考えてないボクのような人間でないとわかりづらいのかもしれない。

瀧井銀次は、このあと組織を裏切ることになっていた。そのやるせなさを、弾丸に込めて射出したのだ。

 

川上は、男を使えないことが強調される。自殺未遂をして入院し、同じ入院患者の女に迫られても彼女を抱くことができない。

フォークリフトのシーンでも「女はいない」とわざわざいう。

(〈男の発揮〉が〈女の所有〉でしかないことに書いてて涙が出てきましたが)

 

川上は劇中で何度も試し撃ちをする。そんなに撃ってばれないのか?銃は壊れないのか?と不安になってくるほど撃つ。

でも撃つ必要がある。なぜならこの試し撃ちは自慰だからだ。本番のための練習だからだ。川上の銃撃成功は、努力・練習の結果である。

映画の最初の方で、銃は二発目を撃つことができない。そのために川上は銃を調整する。また、弾をうまく当てることができない。そんなとき、自殺したはずの兄が現れる。統一教会に一矢報いようとして失敗した兄である。兄は「脇を閉めろ」みたいなアドバイスを川上にする。

 

ついに安倍晋三が奈良にやってくる。

川上は、安倍晋三を銃撃する。一発目は外れた。しかし、二発目を、兄のアドバイス通り落ち着いて撃つ。そして、殺害に成功する。

遂に本番で男を使用することができたのである。

 

ところで、この、川上(山上)の地元であり、鬱屈した時間を過ごした奈良に安倍晋三がやってくるというフィクションよりフィクションらしい展開はもっと強調してもいいとおもったのだが、意外と奈良という場所は強調されない。銃撃の直前、川上の青春のように見えた応援団が実は一人で学校の屋上でやっていたということが明らかになるシーンで奈良の盆地が映されるくらいである。

あと銃撃直前の時間つぶしのシーンもすばらしかった。川上は路地裏でスマホの音楽を聴きながら時間をつぶす。そのヒリヒリした緊張感が、体の動きを使って表現される。どうでもいいが、このシーンスマホの画面がLINEの画面だった気がするけどなんでだろう。山上徹也はツイッターをやっていたと言われていたのだから、ツイッターの画面でも映せばいいと思ったのだが、ツイッターは一度も出てこなかった。

 

さて、銃撃に成功した川上はどうなったかというと、

なんかあの世みたいな場所に行くのである。

しかも「俺は星に向かっている」とかよくわからないことを言っている。

川上は安倍銃撃によって童貞を卒業した結果、今までの鬱屈が解消してしまったのである。

まあこれは童貞卒業した男にはよくある話で、童貞卒業すれば男のルサンチマンはだいたい消えるのである。たぶん。童貞だから知らんけど。

 

妹が武道館に爆弾特攻して映画が終わるという案もあったそうだ。

それはそれでおもしろいと思うが(だって公開日は国葬当日なんだから)、妹は爆発しない。

女だからだ。

男が男を使うと、銃撃になる。

 

結局、川上が救ったのは自分の魂だけなのだ。

最後川上は死んだみたいな感じになってたが、べつに死んでない。留置所に入れられただけだ。

だから、川上は英雄ではないし、星にもなれない。

星になれるのは古来から死んだ者だと決まっているし、ヒーローは自分を殺さなければならない。

ヒーロー論は別に書くとするが、この映画は川上=山上を英雄として描いた映画ではない。

 

しかし、魂の救済のためには/このつまらない日常からの脱出のためには、銃を握らなければならないときもあるということだ。

映画『ワース命の値段』感想。前進ではなく立ち止まる勇気、リスペクト

 

あらすじはかかないよ。

 

youtu.be

この映画の見どころはなんといっても役者の演技だろう。それも被害者のそれではなく、弁護士たちのそれだ。被害者の話を聞いた弁護士達は、まさに「言葉が思いつかない」という表情をする。それはお悔やみを申し上げる〈アイムソーリー〉の表情であると同時に、困ったな=そんなこといわれてもどうしようもないよ、という表情だ。「お気持ちはわかりますが……」である。

 

映画を見る前、この映画がどんなストーリーになるのかイマイチ想像ができなかった。911被害者の命の値段を数えた男がいたという。では、彼の敵は何だったのか?それがよくわからなかったのだ。まあ、答えは単純で、自分だったというわけだ。「お気持ちはわかりますが……」という姿勢。被害者に寄り添う素振りを見せつつも、ただ自分の仕事を効率的に進めることにしか頭にない態度。それが、倒すべき敵だったのだ。

前進ではなく、立ち止まる勇気。それが、この映画の答えだ。立ち止まるとは、人を、数ではなく人として扱うこと。つまりリスペクトをもつことだ。

黒人職員の電話での面談が印象的だ。資料をファックスで送るのだが、コピー店があるか聞くも言い直し、「こちらで探しますね」という。ちょっとした親切心、思いやり、リスペクトが見れるいいシーン。

 

他に注目すべき要素は、新しく建築される家だろう。映画開始当初、つまり911直後はまだ測量をしていたが、終わる頃には完成している。崩れ落ちたwtcと、新しく建てられる家。

「あなたは橋ではない」と映画中でいわれる。被害者遺族のリーダーであるウルフはかつて、街の名物だった橋の取り壊しの反対活動をしていたが、結局橋は取り壊されてしまった。失意の中のウルフに911で亡くなった妻が投げかけたのが、「あなたは橋ではない」という言葉だ。橋は壊されたが、あなたが壊れたわけではない。だから、まだ他のことのために闘える。

ファインバーグは、そしてアメリカは何を建てたのか。

 

映画を見て思ったのは、「国」のお話だなあということ。

ブッシュ大統領はテロに対し「報復をためらわない」と宣言する。仲間が、私達が、国が攻撃されたという意識。被害者補償基金も国を守るため。そして命の値段をいくらにするかということも、国としてどうすべきかということだ。

 

英語について思ったこと。

アイムソーリーというのは良い言葉だとつくづく思う。相手の悲しみを思いやると同時に、ある種の謝罪も表明する。ケンリュウの『良い狩りを』でも触れられていたが、ちょうどいい表現だ。

ウルフから「あなたは橋ではない」という言葉を聞いたファインバーグは、「フォーチュンクッキーみたいだ」と言った。あちらでは意味深なことばといえばフォーチュンクッキーのようだ。

遺族一人ひとりに柔軟に対応すると方針を変更したファインバーグに対し、副マスターのカミールは賛意を示して「love it」というような表現を使っていた。チャーミングだ。